第三章 事務所が炎上する2
昨夜のバイト後はストーカー騒ぎがあり、そのまま玄奘の大学と配信現場についていったので、今夜は二徹目だ。さすがのおれも少々まぶたが重くなりつつバイトを終えた。
住宅街の隙間を塗りつぶすように広がっていく朝日に濃紺の雲がほんのり照らされている。いつもは寒くて眠くて味気ない帰り道も推しが家で待っていると思えば踊り出しそうなほど足取りが軽くなる。
おれはコーヒー牛乳の入ったビニール袋をぶんぶん振り回して帰り道を急ぐ。早朝のこの時間、玄奘は寝ているだろうがそれでも嬉しい。寝顔を見るのさえも楽しみだ。
いそいそと鍵を差し込みドアを開ける。玄奘を起こさないように音を立てずに、でもそわそわと靴を脱いだ。
がらんとした部屋は物音もしない。もぬけの空だった。寒々とした光が遮光カーテンの隙間から漏れている。焦ったおれはがしがし歩いて浴室とトイレも確認したが誰もいない。
ベッドの布団を捲ってふれてみる。まだわずかに温もりが残っている。そんなに遠くには行っていないはずだ。
瞬間、ドアが開く音がする。
「玄奘っ」
思わず叫びながら振り向くと、おれが期待した姿ではなかった。
青ざめた顔色の玉竜だった。この世の終わりを告げるような声で玉竜は言った。
「玄奘が……さらわれた。」
言った瞬間、玉竜の手のひらから何かがぼとんと落ちた。自撮り棒だった。
玉竜によれば、玄奘だけではなく八戒と悟浄も一緒にさらわれた可能性が高いようだ。
きっかけは玄奘が自分の家に服を取りに行きたいと言い出し、八戒は推しの家を見てみたいからと同調したことだった。
悟浄は初めは家から出るなと悟空に言われたと反対したらしいが、八戒が
「なに言ってんだよ。ストーカーはもう兄貴が退治したんだろぉ?もう安全じゃないか。そうだ、念のため後から配信できるように撮影しながら行こう。編集して『ストーカーに狙われる我が家に帰ってみた』的な配信できるじゃん。」と言葉巧みに誘ったせいで、悟浄も
「撮影しておけば被害届を出す際の証拠にもなろう。拙者達がついていけばそれほど危険とは言えまい」と納得してしまったとのことだ。
まったくあの阿呆どもときたら。
玉竜は
「僕は別に用事がなかったし行かなかった。でもいつまで経っても三人が帰ってこないし、電話も繋がらないし、様子を見に行ってみたんだ」と、肩を落とした。
薄情そうに見えてそれなりに仲間意識はあるらしい。玉竜が玄奘の部屋に行ってみると、玄奘の部屋は無人のまま施錠もされておらず、傍には玄奘達が持参した自撮り棒が落ちており、何か重いものを引きずった跡がついていたらしい。おそらく八戒を引きずった跡だろう。
玉竜は他に手だてもなく、自撮り棒を持って引き返してきたというわけだった。
悟浄であれば何か手がかりを残していくはずだ。おれは自撮り棒をカチャカチャいじってみる、と接続部分が外れ、中から現れたUSBをパソコンに繋ぐとGPS表示が現れた。悟浄が発信器を持っているようだ。
「予想通りだな」
おれは立ち上がり、バイクのキーを取り出した。発信器の点滅は牛王組事務所を示していた。
「相手はヤクザだよ?殴り込みに行くなんてヤバくない?」
尻込みする玉竜は意気地が無いわけではない。むしろ当然の反応だろう。
「行っても行かなくても既にもうヤベーよ」
「警察に言った方がいいんじゃない?」
「証拠が弱すぎてたぶん動かねえだろ。おれは一人でも行く」
おれは玄関に置いてあるヘルメットを手に取りながら靴を履いた。もう一秒も無駄にできない。
「……行かないなんて言ってないじゃん」
玉竜は鼻にしわを寄せながら、おれの持っていたヘルメットを奪い取った。
スズキRG250Γの後ろに玉竜を乗せ、牛王組の事務所に空を飛ぶ勢いで乗りつけた。玄奘の傍を離れてしまったという後悔と、玄奘がさらわれた焦燥感で吐きそうになる。
おれは牛王組事務所の扉を蹴り開けた。
玉竜には三十分以内に戻らなかったら警察に行くよう指示しておき、念のため入口の陰で待たせておく。三十分も事務所内で暴れていれば銃声も周囲に聞こえるだろう。
「なんだなんだ、昨日も今日もおかしな奴が乗り込んできやがって」
大声で叫びながらわらわらと集まってくる組員をおれはちぎっては投げ、ちぎっては投げる。
さすがにカタギ相手に飛び道具はすぐには出してこないらしい。徒手空拳なら勝ち目はある。おれは階段を三段飛ばしで駆け上がり、二階にあった正面の真鍮製の扉を開けた。
「玄奘っ」
殺風景な部屋の真ん中で集団が形成されており、おれの怒号に部屋にいる全員が振り向いた。たくさんの男達の足元にうずくまっていたのは八戒と悟浄だった。
「兄貴ぃ~」
「悟空、待っておった」
二人の声にはまだ覇気があるが、既に顔はボコボコに腫れており鼻血も出ている。
「オメーら、家から出るなって言っといただろうっ」
「兄貴ぃ、だって大丈夫だと思ったんだよぉ」
八戒はおれの姿を認めるなり、急に立ち上がって隣のヤクザをぶちのめした。そのまま回し蹴りを繰り出して、確実に一人ずつ沈めていく。
「な、なんだ。急に元気になりやがった」
周りを取り囲んでいた組員たちは動揺し、数歩後ろに下がった。
八戒の強さは気分に大きく左右されるのだ。勝ち目がないと思えば早々にやる気を失って反抗もしないが、自分が有利と思った途端に馬鹿力を発揮し始める。
おれも人だかりの中央に潜り込むようにして次々に組員を殴っていく。正面の敵に右の拳を繰り出し沈めた瞬間、背後からの敵の蹴りを左腕で受け止めた後、身体を反転させて頭突きする。
と思った瞬間、両脚をとられた。左右の脚にご丁寧に二人ずつ男がしがみついている。ふいを突かれた瞬間、アリが飴玉に群がるように両腕にも男たちが集まってきて、四肢を固定された。さすがのおれも動きがとれない。
「終わりだな」
正面の男が唇を歪めて笑い、ドスを構えて迫ってきた。
一発くらいなら気力で耐えられるだろうが何度も刺されたら死ぬだろう。一発目を刺した後の隙を狙って身体を捩って逃げられるだろうか。おれは腹に力を入れてタイミングを図る。
その瞬間、「ゔあああああ」と奇声を発しながら身体を震わせてドス男が倒れた。倒れた男の後ろから影のように存在感のない悟浄が現れた。
「改良版スタンガンだ」
「そんなんあるなら早く出せよ。兄貴が来る前に逃げられたかもじゃん」
八戒が身体を大きく揺らしながら不満を言ったが、悟浄はくせのある髪の毛を撫でつけながら涼しい顔をしている。
「拙者一人であの人数を相手にできるわけがなかろう。組み伏せられて武器を奪われるのがオチだ。機会を狙っておったのだ」
「それで玄奘はどこだ」
三人で敵をなぎ倒しながら、おれは周囲を見回す。奥の扉があやしい。
「玄奘だけ頭オカしそうな若頭に連れてかれたんだ!VIPルームへ特別御招待だってさ」
いつでも口の減らない八戒はふざけた口調で言いながら、重たいミドルパンチを繰り出して敵を倒す。
「推しから目を離すとかオタクが一番やっちゃいけねえことだろ。ほんっと何やってんだよ、てめえらっ」
八戒と悟浄への苛立ちを込めながら放ったおれの回し蹴りは敵三人を一度に薙ぎ払った。
「おれは玄奘のところに行く。ここはお前らに任せたぞ」
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