第53話 別れ②
ヒカルはコンビニ袋を片手に提げて、深い森の中に分け入っていく。黒ペンキで塗りつぶしたような真っ暗闇だが、夜目の利く彼女にはどうということはない。目をつぶっていても目的地に到着できる。
苔むした岩場に開いた天然の顎は、人がどうにか入り込める広さしかない。だが、その深さは計り知れない。日本海溝より数十倍深いとか、月の裏側とつながっているとか、神々の間ではまことしやかに伝わっている。
ざっくりいってしまえば、異次元と連結している、ということだ。
ヒカルはコンビニ袋の中から、ビルの生首を取り出した。水気を失って一回り小さくなったせいで、まるで干し首のようになっている。
「じゃあね、ビルさん。お互い二度と会いたくないものだね」
無造作に投げ出された生首は、昇天洞の奥底へと静かに落ちていく。不思議なことに、まったくの無音だった。何かにぶつかった音や風を切るような音も聞こえない。それは異次元に送り込み、二度と戻ってこないという証である。
これによって、〈旧支配者の末裔〉との戦いは完了した。
ただ、ヒカルには気がかりなことが一つある。
奥多摩の森は動物の宝庫だが、小さな滝のある水辺に、虫一匹近づかないエリアがあった。サーヴァントが泥の中に埋もれて、昏睡状態から回復するために、大地のエネルギーを吸い取っているせいだ。
〈鬼〉は妖怪であると同時に、精霊でもある。奥多摩の豊かな大地は、精霊と親和性が高く、エネルギーの供給源として最適だった。だが、サーヴァントは依然として目覚める気配がない。
「前も3年かかったし、理市って本当にお寝坊さんなんだね」
ヒカルはポツリと呟くと、予備動作もなく高々とジャンプした。着地したのは暗闇を切り取ったような小山の天辺だった。言うまでもなく、夥しい眼球をもつ〈大いなる監視者〉の本体である。
ヒカルは欠伸をしながら足の先からスルリと本体に飲み込まれ、しばし休息の時を得るのだった。それは例えるなら、母親の胎内にある羊水の海で眠り続けるような至福の時間だった。
神々は永遠に近い時間をもっている。それは、時間を味方につけている、という言い方もできるはずだ。
厄介な問題はとりあえず棚上げにして、見方をかえれば問題の先送りにして、時間の経過によって解決しないかどうか見守ってみる。それが神々のオーソドックスな思考法だった。
神々の時間感覚は、桁外れである長寿の影響を受けている。長生きしても100年の人間と1000年以上生きている神の時間感覚は、根本的に違っていて当然だろう。
犬飼理市は生死の狭間はさまよっていたため、思いの外、回復まで時間がかかった。ヒカルにとっては数日間の感覚かもしれないが、実際には半年以上の時間がかかっていた。ただ、この世に舞い戻ったのは、単に幸運だったわけではなく、それだけ生への執着が強かったせいだろう。
泥の中からノロノロと身体を起こすと、まず深呼吸を繰り返し、身体の中を新鮮な酸素で満たす。ああ、生きている。美しく豊かな自然に包まれながら、瑞々しい生を身体じゅうで実感した。
理市は大欠伸をしながら、水辺に降りた。岩場から湧き出した小さな滝に打たれて、身体にこびりついた泥を洗い流していると、背後から声をかけられた。
「犬飼理市、よく命が助かったな。大した生命力だ。身体の内側がグチャグチャになっていたから、正直これは助からないかもしれん、と思ったぞ」
一糸まとわぬヒカルが大きな岩の上に立っていた。両手を腰に当てて、ニヤニヤと笑っている。おまけに仁王立ちである。理市は苦笑しながら、目を反らす。
「ヒカルさん、恥じらいってものがないのかよ」
「おまえは神に恥じらいを求めるのか。裸なのはお互い様だろうに」
そう言えば初対面の時も全裸だったな、と理市は想いをはせる。
本体が高齢だろうが、分身であるヒカルの外見はハイティーンのそれと変わらない。ふくらみかけた乳房と清楚な身体のラインは、天使のように美しい。もっとも、彼女の本体は似ても似つかぬ醜悪の極みであるが。
ヒカルは清流に足を踏み入れると、理市の近くまでやってきた。しげしげと身体のあちこちを眺めまわし、さも感じ入ったように嘆息する。
「うん、回復具合は問題ないな。とりあえず、復活おめでとう。新たな〈響き眼〉は理市の身体とよく馴染んでいるようだ」
「そうなのか。それはまぁ、よかった」
「何だ、気のない返事だな。おまえ、サーヴァントの立場がわかっているのか。こっちが主人で、そっちは下僕だぞ」
「心に大きな穴が開いたというか、頭の中が真っ白だというか、家族の復讐を果たしたので、今は何も考えられない」
「それって、燃え尽き症候群とかいうやつか。とりあえず、今は出番がないし、おまえの好きにすればいい。人間にまぎれて暮らすもよし。もう一度、〈響き眼〉を返却して、今後こそ天に召されるもよし。そういえば、家族の
「ヒカルさん、それは言葉の
そう言いつつ、理市には生きる目的を見いだせなかった。
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