第36話 神鏡全開(スクープ・ミラーズ)②


 生理的な嫌悪感を呼び起こすような、不気味でリアルな恐怖だった。


 外階段の時と同じように、リノリウムの床がぬかるみと化し、両足がズブズブと沈んでいく。それだけではない。驚いたことに、彼女の背丈がみるみる縮んでいく。


 まさか、時間が巻き戻っているのか、しかも高速で。ジーナはたちまちローティーンの顔つきになってしまった。


 その時、目の前の床に黒い穴が大きく開き、その中からイリュージョンのように浮かび上がってきたものがある。


 恐怖の幻影をつくりだした張本人,アンノウンである。


 ジーナのイメージより、はるかに背が高い。アンノウンの顔を見るために、ジーナは見上げなければならなかった。これは両足が床の中に埋まっているせいなのか。


 窓ガラスにうつった自分の姿を見て、その理由を察した。さらに時間が巻き戻ったのか、ジーナは8歳程度の幼女になっていたのだ。


 ヒカルはにっこり笑って、ジーナを見下ろしている。

「〈神鏡全開(スクープ・ミラーズ)〉」

 愛くるしい唇が呟いた時、部屋中の眼球が一つ残らず光を放ち始めた。


 光に包まれたヒカルは、意外なことこに神々しく見える。悪夢の情景を生み出した存在でありながら、聖母マリアと見間違う神々しさである。ジーナは無意識のうちに、膝をついて両手を合わせていた。


 光の放射は次第に輝きを増し、高速で回転を始める。まるで光のメリーゴーランドであり、ジーナを中心に据えて巨大なドームを形成していく。


 映画のスクリーンに映されるように、ジーナの過去が光のドームの中で展開していた。心の傷をえぐりだすように、記憶の底に封印してきた過去を突きつけられてしまう。ジーナは目をらしたくても逸らすことはできない。


 まず、スーパーマーケットの駐車場で母が殺された光景を見せられた。

 薬物中毒の男が運転する暴走車によって、若く美人だった母はね飛ばされてしまう。壊れた人形のような母親の姿は、ジーナが忘れたくても忘れられない記憶である。この光景は何度も繰り返し見せられた。


 身体の大きなイジメっ子に美しい黒髪をハサミでザクザク切られたことも、忘れられない記憶である。その残酷な情景も光のドームの中で、繰り返し突きつけられた。ジーナの黒髪は切られては急速に伸び、元通りになっては再び切られる。


 身体の一部を無理やり奪われることは、命の一部を奪われることと同義だった。耐え難い心の痛みを感じずにはいられない。あの時、幼いジーナは初めて、心が凍りつく感覚を味わったのだ。


 ジーナは父親をマフィアに殺されたのだが、幸いなことに、父親の殺害現場を見てはいない。ジーナの記憶にないシーンは扱えないのだろう。父の死が光のドームの中で上映されることはなかった。


 その代わり、母の死と黒髪の切断、という辛い思い出は、何度も繰り返し味わった。まるで、エンドレスの悪夢のようだった。


 これが、アンノウンの〈神鏡全開〉なのだろう。いつのまにか、ジーナは泣いていた。

 アンノウンの精神攻撃は強力な催眠術に似て、心の最も弱い部分を攻撃する。その結果、強面の大男でさえ、赤ん坊に変えてしまうのだ。


 父親を殺したマフィアを全滅させ、裏社会で有名な殺し屋になったジーナだが、今は8歳の頃に戻ったように、涙をボロボロとこぼしていた。


 アンノウンの〈神鏡全開〉は、唐突に終わった。光のドームと無数の眼球が消え失せている。ジーナは埃だらけの床で、胎児のように身体を丸めていた。大人の身体を取り戻したのに、その姿は泣きつかれて眠った子供のようだ。


 アンノウンはジーナを見下ろして、

「ふふ、可愛い寝顔ね。もう追いかけてこないでよ。こう見えても、私は忙しいんだからさ」

 一旦は立ち去ろうとしたが、くるりと振り返った。

「いいこと思いついた。私って天才ね」ジーナに近寄ると、彼女の顔を覗き込む。「ねぇ、足を引っ張った責任は、その身体で返してもらうわよ」


 数分後、ヒカルは今度こそ本当に立ち去った。資料室に登場した時と同じように、足元に開いた黒い穴の中に沈んでいったのだ。


 薄暗い資料室に残されたのは、戦闘不能と化した女殺し屋と静寂だけだった。










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