第21話 眼球の群れ①
ヒカルは心の底から開放感を味わっていた。何といっても、数十年ぶりの人里である。目に映るものすべてが新鮮であり、今のヒカルは好奇心の塊だった。
ただ、空気は埃っぽくて不純物が混じっているせいか、高層ビルディングを見上げているだけで、目がチカチカしてきた。あと、相変わらずの人間の多さには呆れてしまう。それぞれの無軌道な動きを見ているだけで、頭がクラクラして酔ってしまいそうだ。
それでも心が弾んでしまうのは、人里が刺激的で面白いからだろう。かわいらしい女の子や小さな子供は見ているだけで楽しいし、声をかけてくるナンパ男をあしらうのも面白い。ちなみに、スマホなるものは今回初めて目にした。
「まるでお上りさんね。いや実際、その通りなんだけどさ」ヒカルは軽やかに歩きながら、満面の笑みを浮かべる。
パステルピンクのワンピースがよく似合っていた。ふわふわロングの黒髪。大きな眼をクリクリさせて、輝く笑顔を浮かべたところは、掛け値なしの可愛らしさである。〈百年に一人の美少女〉といっても過言ではない。
ヒカルは少し歩いては、傍らを駆け抜ける小学生たちを見送る。また少し歩いては、路上で日向ぼっこをするネコを眺める。また少し歩いては……。そんな風なので、なかなか前に進まない。
そのため、空を飛んでいた相棒は痺れを切らしたらしい。
「おい、ヒカルぅ、グズグズするな。早く行こうっキュー」
頭上でパタパタと羽ばたいているのは、異形の鳥,求丸である。羽根を生やしたソフトボールのような姿かたちだ。一見、太ったハトのようだが、丸い胴体には巨大な一つ眼と三日月形の口があった。
「わかってないな、求丸。私はタイミングを計っているの」
「何がタイミングだよ。あの犬飼理市がやばそうだキュー」
「もし殺されたなら、その程度のヤツだったということよ」
ヒカルは理市のことを不愉快に思っていた。理市は命の恩人であるヒカルに無断で、さっさと下山をしてしまったのだ。はっきり言って、恩知らずである。
「マジ、ムカつく男よね。借りは早く返してもらわないと」
「あまり人間に関わると、ロクなことにならないぞキュー」
求丸の小言を聞き流していたヒカルだったが、やがて、すっくと立ち上がり、遠くを見つめる顔つきになった。
「ふん、決着がついたみたいね。じゃ、そろそろ行こっか」
歌うような口調でそう言うと、ヒカルは歩き始める。体重を感じさせない軽やかな歩き方は、まるで天使か妖精のように見えた。
*
理市は絶体絶命のピンチに追い込まれていた。
黒井の隙をつこうにも、自分を見下ろす眼差しに、油断や慢心の気配は見当たらない。黒井は天性のファイターなのだろう。野生動物並みの用心深さで、鋭い眼光を放っている。
「……あんた、赤蜂組随一の武闘派,黒井さんだろ。つええなぁ。……もし、あんたを倒したらさ、……やっぱ、でかい顔ができるだろうな」
喉の奥から声を絞り出したのは、時間稼ぎのためである。身体の状態がいつもとは異なり、少しも回復していない。とにかく今は時間が必要だった。
黒井は表情一つ変えず、無造作に右足を上げると、容赦なく、理市の腹部を踏み抜いた。再生しかけていた臓器が破れて、理市は悶絶してのたうち回る。
「俺たちの業界では、舐められたら終わりでな。ど素人が調子にのるんじゃねぇぞ」
初めて聞く黒井の声は、顔つきにふさわしい重低音だった。
「ヤクザ相手にカチコミをした度胸は褒めてやる。そんなバカ、見たことがねぇし、どこにもいねぇぞ。犬飼理市、楽に死ねると思うな」
理市は失神寸前の状態で、命運が尽きたことを思い知った。どうやら年貢の納め時のようだ。覚悟を決めるしかないか。そう考えると、自然と腹がすわった。
そんな時、かすかな笑い声が、
……クスクス。……クスクス。
聞き覚えのある、若い女の忍び笑い。黒井の怪訝そうな表情を見ると、どうやら幻聴ではないらしい。
「おじさん、それぐらいにしといたら」
軽やかな声が裏路地に響き渡る。黒井が声のした方を振り返ったが、なぜか人影はない。スズキ・ワゴンRが一台停車しているだけであり、車内も無人である。
悪趣味なデザインの車だった。真っ赤の車体に人間の目が無数に並んでいる。まつ毛の生え方や
苦笑する黒井だったが、次の瞬間、驚きの表情を浮かべた。無数の目が一斉に瞬きをして、黒井を見つめたのだ。数十の力強い視線が黒井の全身を貫いた。
〈武闘派ゴリラ〉の黒井が一瞬で気圧されていた。断じて、目の迷いではない。無数の眼球は明らかに生きている。しかも、ワゴンRの車体だけではなく、路地の壁面にも、傍らの電信柱にも、一軒家の外壁にも、夥しい数の眼球、眼球、眼球……。
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