第16話 血まみれの死闘①


 ガツンという音を理市は全身で聞いた。


 骨と筋肉と腱が断たれたらしい。衝撃と激痛は後からやってきた。最上の巨大な顎がギロチンのように、理市の左手首を切断したのだ。数本の血管と筋肉が紙一重でつながっているが、つまらぬ未練は命取りになる。理市は、あっさり引きちぎった。


 再び食いつかれるより、相手から距離をとる方を優先するためだ。

 巨大な顎があてつけのように、大きな咀嚼音そしゃくおんを上げていた。これ見よがしに、最上の高笑いが響き渡る。


 理市は思わず、頭に血が上った。

「俺の左手を返しやがれっ」

 後先を考えずに突進したが、血溜まりで足を滑らせて、最上の足元に飛び込んでしまう。偶然ではあったが、右腕に巻きついていた触手の締めつけが緩んだのは、不幸中の幸いだった。


 理市は床の上を転がりながら、すりこぎを右手で拾い上げ、最上の足首を殴る。

 だが、最上の下半身は強靭きょうじんだった。床から生えているような安定感で右足を引き上げると、理市の身体を踏み抜こうとする。


 理市は転がって、必死に逃げる。その時、ドアの方から複数の足音が上がった。最上の仲間たちが騒ぎに気づいて、駆けつけてきたのだろう。左手の大怪我など、不利な要素が揃いすぎている。ここは、仕切り直しをすべきだ。


 つまりは、退け時である。理市は最上の顔面に向かって、思い切り左手を振った。血の目つぶしをくらわせたのだ。

「次に会う時には、江美と美結の敵を討ってやる」

 捨て台詞を吐いて、隣のリビングに飛び込んだ。あらかじめ考えておいた脱出ルートである。


 理市は大きな窓を全開にした。生暖かい風が吹き込んできて、頬をなぶっていく。ベランダの向こう側には、広大な空間があるだけだ。

 身を乗り出して、真下の駐車場を見下ろした。5階から地上まで約12メートル。一般人が飛び降りれば重傷必至の高さである。だが、理市は迷わず、ベランダの手すりに足をかけた。


 なぜか、最上は追ってこない。その代わりに玄関ドアを蹴破って、バットや日本刀を手にした連中が駆け込んできた。

 理市は弾かれるように、夜空に向かってジャンプした。


 むずがゆくなるほど不快な空中停止の後、さらに不快な自由落下が始まった。全身に力を込めると、負傷した左手を背後に回し、右腕と両脚を下方に伸ばした。落下する猫と同じ態勢をとったのだ。


 モスグリーンの長方形がグングン迫ってくる。5階の窓から見下ろした時から、着地点はSUVの屋根と決めていた。頑丈そうなそれは、大音響とともに、クレーターのように陥没した。


 着地寸前のコンマ1秒で、理市は素早く右肘と両膝を曲げて、全身の衝撃を減少させた。それは受け身というより、本能に基づいた動きだった。


 12メートルに及ぶ落下は計算上、時速55キロメートルの乗用車に跳ねられた衝撃に等しい。理市は衝撃から逃れるため、全身の激痛に耐えつつ、鞠のように大きく跳ねた。身体がバラバラになりそうだったが、アスファルトに着地する時、身体をまるめて頭部をかばうだけの余裕はあった。


 理市は駐車場の真ん中で大の字になり、大きく息を吐き出した。素早く神経を研ぎ澄ませ、全身をサーチする。胸に痛みはないので、どうやら肋骨ろっこつは無事らしい。重要な臓器が破れた気配もない。並の人間なら無事ではすまないが、理市の肉体は並外れて強靭である。


「てめぇ! どこのどいつだぁ!」罵声ばせいが天から降ってきた。

 さっきまでいた5階のベランダには、間抜け面が並んでいた。あんな連中に捕まるわけにはいかない。理市は身体を起こそうとしたが、ピクリとも動かない。思いのほか、衝撃が大きかったようだ。焦燥感で身体を焼かれそうになる。


 理市は5秒だけ目をつぶって、〈響き眼〉が癒着した心臓に意識を集中させる。意識を液体化して指先や足先に送り込むイメージ。一時的に麻痺した神経や断裂した血管が、瞬時につながり、勢いよく血流を復活させる。


 同時に左手の傷口も、新たな肉が盛り上がってきて、みるみるふさがっていく。この驚異の回復力も、〈響き眼〉の影響なのだろう。

 理市は大きく息を吐き出した。ゆっくりと立ち上がろうとした時、破壊したSUVの方向から、噴き上がるような殺気を感じた。


 振り向くより先に、理市は反射的に身体を反らした。車の破片らしきものが、理市の身体をかすめて、背後の立ち木に突き刺さる。もし、命中していたら、身体の一部をもっていかれるほどの威力だった。


 理市は驚くべきものを目撃した。大きく凹んだ車体から、ゴリラみたいな巨体が這い出てきたのだ。凶暴な風貌に見覚えがあった。最上の片腕を務める黒井である。先日、山野の事務所で見た顔写真通りの凶暴さだ。


 よりによって、赤蜂会随一の武闘派の上に飛び降りてしまうとは。

「おいおい、今日は厄日かよ」理市は溜め息とともに苦笑した。




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