第17話 血まみれの死闘②


 黒井は怒り狂っていた。血まみれの顔が野獣の咆哮ほうこうを上げる。丸太のような両腕で、SUVのドアを引きちぎるや、理市に向かって投擲とうてきした。


 理市は素早くサイドステップを踏み、背後の雑木林に飛び込む。分厚いドアが理市の頭をかすめて、立ち木の太い幹を両断した。もし、胴体に命中していれば、背骨をへし折られていたことだろう。


 衝撃によって落ち葉が舞い落ちる中、理市は態勢を低くして走り始めた。


 最上の異形化は想定外だったし、左手の喪失という被害も受けた。理市はやむを得ず、逃走した。これはあくまで仕切り直しだ、と自分に言い聞かせながら。


 黒井の位置とは反対方向が、にわかに騒がしくなった。ガラの悪い連中が慌てて、5階から駆け降りてきたらしい。理市は苦笑する。左手を失った身であっても、彼ら全員を蹴散らすことはできる。


 だが、最上と黒井が加わると厄介だ。とりあえず、今は逃げの一手である。理市は獣のように、雑木林の中を駆け抜ける。


「キューキューっ」木の上で何かが鳴いた。イルカのような鳴き声である。それはなぜか、「逃げろ逃げろ」という風に聞こえた。


 羽ばたき音に頭上を振り仰ぐと、奇妙な鳥が木々の間を横切った。ソフトボールに羽根が生えたようなシルエットだが、驚いたことに首がない。どこかで見覚えがあるが、それがどこだったかは思い出せない。


 理市が全力で疾走する姿は、野生のチーターを思わせた。あっという間に雑木林を抜けて、マンションの敷地と通りを仕切る鉄柵を飛び越える。そのまま、あっという間に、理市の姿は漆黒の闇にまぎれこんでしまった。


                  *


「で、何だって、よく聞こえなかったな。黒井、もう一度いってくれ」

 最上はスーツに身を包み、事務室の中で黒井から報告を受けていた。

「すいません、奴を取り逃がしました。しかし、部下たちが総動員であたっています。必ずや今日中に見つけ出してみせます」


「バカ野郎、取り逃げられましたで済むかよ」

 そう言って、いきなり右の拳を黒井の腹にめりこませた。本気で殴ると再起不能になりかねない。あくまで力を加減した拳である。それでも、タフで知られる黒井が膝から崩れて激しく嘔吐していた。


 ヤクザはめられたら終わりだ。舐められたら、この世界では生きていけない。それは人間を捨て、異形になったとしても同じである。


「犬飼理市を死んでも捜し出して、俺の前に連れてこい」最上は黒井に厳命した。「もし、できなければ、てめぇを代わりにぶっ殺す」

 こめかみの血管がぶち切れそうなほど、最上は激怒していた。


 最上自身が理市を追わなかったのは、異形である姿を部下たちに見られたくなかったためである。


 現時点では、最上が異形であることは秘密である。それを明かしていいのは、確実に相手の息の根を止められる時だけである。それは、ビル・クライムの厳命だった。


 だから、最上は部下たちの前で、異形の姿をさらすわけにはいかない。身内であっても、それは御法度ごはっとである。あやまって目撃した部下は皆、この世を去った。言い換えれば、最上の真の姿を見た者は、一人残らず死体になっている。


 唯一の例外が、犬飼理市だった。


 犬飼理市は3年前の彼とは、まるで別人だった。鍛えられた身体はアスリートを思わせたし、戦闘時のスピードとパワーは人間離れしていた。明らかに、最上と同じ異形だった。


「次に会う時には、江美と美結の敵を討ってやる」とか理市は言っていたが、いつになるのかわからない襲撃など、のんびり待ってはいられない。


 そもそも、素人のカチコミを受けただけで、ヤクザのメンツは丸つぶれであり、前代未聞の恥さらしだった。何が何でも始末をつけなければならない。


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