第14話 仇敵との邂逅①


 月の見えない夜だった。

 天空が分厚い雲に覆われており、いつもよりも闇が深く感じられる。


 理市は暗闇の中を軽やかに走っていた。贅肉のない引き締まった身体だ。アスリート顔負けの筋肉が軽やかに躍動する。ダークグレイの長袖シャツとスラックスは、伸縮性と柔軟性に富んでおり、理市の滑らかな動きを妨げることはない。


 場所は新大久保だった。理市の前には、高級マンションがそびえたっている。濃い灰色であるせいか、墓標のように見える。今夜は複数の部屋で裏カジノが営まれているはずだ。仕切っているのは、妻子の命を奪った最上である。


 江美と美結のかたきを討つ。それが今夜の目的であり、理市自身の存在理由でもあった。


 心臓に癒着した〈響き眼〉のおかげで、理市は強靭きょうじんな肉体を手に入れた。異形と化した理市に太刀打ちできる人間など一人もいやしない。そう考えたとしても、慢心とは呼べないだろう。


 この時点において、異形と化した人間が自分以外にいるなど、理市には知る由もなかったのだから。


 理市は周辺に人目がないことを確認すると、助走もなしに高々とジャンプした。高さ3メートルのフェンスを軽々と飛び越えていく。獲物を狙う肉食獣のように、着地の音は最小限度にとどまった。


 降り立ったのは、非常階段の入り口だ。理市は腰を沈めたまま、スチール製の階段を軽やかに駆け上がる。履きならしたスニーカーは、裏カジノのある五階に到着するまで、かすかな足音も立てなかった。


 あらかじめ用意しておいた合鍵で、スチール製のドアを開錠した。カチャン。ゆっくりと十を数えてから、ドアを薄く開けた。廊下にひと気はない。


 住人の半分は親のすねかじりか怪しげな個人事業主だが、残り半分は企業舎弟の面々である。慎重すぎることはない。ドアの中に、すばやく身体を滑り込ませる。


 理市の鋭い感覚は既に、内部の人間たちの欲望や熱気を察知していた。〈響き眼〉の影響で、第六感ともいえる超絶的なセンサーを備えているのだ。50人あまりの人間が、頭上の六階で賭け事に興じている。彼ら全員のアドレナリンのにおいを嗅いだ気がした。


 507号室の前に来た。吉田の情報によると、この部屋が最上の事務所らしい。


 ドアに耳をあてて、内部の気配を感じ取る。話し声と足音から、中にいるのは二人、と踏んだ。ドアノブをひねって、少し引いてみる。出入りが頻繁ひんぱんであるせいか、鍵はかかっていなかった。


 理市は静かにドアを開けると、スルリと室内に忍び込んだ。


 妙な違和感があった。数秒前まであった二人分の気配が、なぜか今は一人なのだ。

空気に血の臭いまで混じっている。耳をすますと、不気味な咀嚼音そしゃくおんが聞こえた。周りに遠慮なくチューイングガムを噛むような音である。


 最悪な状況であることは間違いない。だが、廊下の奥にいるのは、おそらく最上なのだろう。その可能性が高い以上、立ち去るわけにはいかない。理市は足音をたてずに、廊下の奥へと歩を進めた。


 通りすがりのキッチンで武器を調達した。包丁は返り血に注意が必要だし、フライパンでは小回りが利かない。理市が選んだのは、こん棒代わりの、すりこぎだった。


 奥の部屋に近づくにつれて、次第に血の臭いが濃くなっていく。


 理市は確信した。やはり、ドアの向こうには、血まみれになったがいる。そいつは間違いなく、人間を喰らっている。


 ドアの前に立ち、理市は少しだけ迷った。向こう側にいるのは、明らかに剣呑けんのんな相手だ。不死身の理市でさえ、容易に打ちのめすことはできないだろう。ならば、ドアを開けずに回れ右をする選択肢もあるのではないか?


 だが、それが最上である可能性がある以上、尻尾を巻いて帰ることはできない。


 結局、恐怖心より復讐心の方が勝った。理市は予備動作もなく、いきなりドアを蹴破り、向こう側へと身を躍らせた。











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