第12話 後悔するには遅すぎる①


 吉田は歯を食いしばって、必死に痛みに耐えていた。


 折られた指は赤く腫れあがり、神経が集中しているせいか、少し触れただけで激痛が走る。必死に耐えているのは、折られた指の痛みだけではない。素人に完敗した屈辱は何ものにも代えがたい。もし、人目がなかったら、大声でわめき散らしていただろう。


 折れた指は、時間がたてば治る。しかし、粉々に砕け散ったプライドは、どうすれば元に戻せるのか?こともあろうに、素人の理市に叩きのめされて、相手に求められるままに情報を提供してしまったのだ。ヤクザにとって、これ以上の屈辱はない。


 ぶっ殺す。必ず、ぶっ殺す。吉田は何度もつぶやいていた。


 それにしても、なぜ、理市が生きているのか? 双子の片割れとか瓜二つの兄弟とかではない。吉田を叩きのめしたのは、間違いなく犬飼理市だった。

 理市は最上の情報を欲していた。おそらく、3年前の復讐を果たすつもりなのだろう。


 理市から詰問されて、吉田は「最上は違う世界の人間になった」と告げた。その言葉に嘘はない。

 最上が変わったのは本当だ。3年前までは、チンピラどものまとめ役にすぎなかった。同期の中では切れ者だという評判だったが、吉田の目から見たら、その他大勢組の一人でしかなかった。


 それが今では、赤蜂会の若頭に引き立てられ、幹部候補の一番手と噂されている。同期の中でも一目置かれる存在だ。


 最上の変化のきっかけは何だったのか?


 吉田には、心当たりがある。組長の古い知人のボディガードに、最上が抜擢されたからだろう。古い友人という割には30代にしか見えなかったが、妙に気になる男だった。


 確か、ビル・クライムといったはずだ。ふざけた名前なので、偽名かもしれない。最上の出世街道は、ビル・クライムに気に入られた時から始まったと考えられる。


 吉田は一度だけ、歌舞伎町をつれだって歩く二人を目撃している。ビル・クライムは、金髪碧眼の美青年だった。ハリウッドスターのように、女性たちの注目を集めていたが、一つだけ奇妙なところがあった。


 死人のような青白い肌をしていたのだ。まるで吸血鬼のようであり、人に非ざるものにも見えた。肌艶や身のこなしは若々しいが、落ち着きはらった態度からは豊かな人生経験を感じさせた。


 随行している最上は明らかに、ビル・クライムに心酔していた。もし、ビル・クライムに命じられたら、どんなことでもやってのけるし、ビル・クライムのためなら自己犠牲も辞さない。そんな従僕じゅうぼくの眼差しだった。


 吉田にも出世欲はあったが、他人に命を預ける覚悟まではなかった。その意味ではヤクザとして半端者なのかもしれない。そのことで覚悟が足りないと言われようが、青臭いと言われようが、吉田に生き方を変えるつもりはなかった。


 だが、いつまでも一匹狼を気取っていられる年齢ではない。時には、強者に取り入ることも必要である。その相手が同期の最上であることは、内心忸怩ないしんじくじたるものがあったが。


 殺したはずの理市がなぜか生きていて、復讐を果たしにやってきた。しかも最上に狙いをつけている。


 この情報は最上にとって有益であるはずだ。吉田が理市を返り討ちにすれば、最上から高評価を受けられるだろう。もしかしたら、吉田を引き上げてくれるかもしれない。これは間違いなくチャンスだった。しかもチンピラから浮上するラストチャンスである。


 だから、吉田は最上に連絡を入れた。理市の件を手短に伝えると、最上からの感謝の言葉を待ち続けた。しかし、最上は長い沈黙の後、ただ、そっけなく、

「明日の昼、顔を見せに来い」と言っただけだった。


 翌日、吉田は一張羅いっちょうらのスーツに袖を通し、時間通りに新大久保にある最上のマンションを訪れた。

 狭い応接間で待っていると、オーダーメイドスーツに身を包んだ最上が入ってきた。おそらく、吉田のスーツとは値段が一桁ちがうだろう。


「何だ、ずいぶんイケメンになったもんだな。最近の流行りなのか?」

 吉田のパンパンに腫れた顔をからかって、最上は唇の端だけで笑った。左頬の大きな傷と皮肉っぽい口振りは、3年前と何ら変わらない。


 変わったのは、最上の肌が死人のように青白い点だ。あのビル・クライムとそっくりな色合いである。まるで吸血鬼のようであり、人に非ざるもののように見える。

 吉田は身体の震えを止めることができなかった。


「で、何だって? 犬っころが生きていたって?」最上は吐き捨てるように言った。

「ええ、いきなり犬飼の襲撃を受けて、仲間たちは全員のされちまいました」


「言葉は正確に頼むぜ。犬っころにのされたのは、てめぇもだろ?」と、鼻で笑った。

 確かに、その通りである。吉田が卑屈に愛想笑いを浮かべた。

「おいおい、まさか、ど素人にやられちまったんで、俺に仕返しを頼んますということか?」


「いえ、とんでもない。ちょっと隙をつかれちまっただけで、今度、野郎にあったら返り討ちにしてやりますよ」

「ふん、どうだかな」


「犬飼の野郎は最上さんを狙っています。必ず、ここにやってくるはずです」

「なるほど、そういうわけか。そいつはいい情報をくれた」


「もしよろしければ、俺と部下が最上さんをお守りします」

「いや、それには及ばねぇ。ど素人に負けた連中なんか、足手まといが関の山だろ。それよりも、てめぇに問いただしたいことがある」


「はい、何でしょうか?」

「さっき、犬っころがここに来ると言ったな。つまり、てめぇは犬っころの拷問を受けて、俺の情報を吐いちまったわけか」


「いえっ、そんなことは決して……」しかし、その顔色は雄弁に物語っていた。

 最上の全身から怒りのオーラが立ち上り、

「このクソ野郎、足を引っ張るんじゃねぇよ」と、吐き捨てた。


 吉田は凍りついてしまった。次に、死ぬほど後悔した。完全に裏目に出てしまった。もしかしたら、この部屋を出られないかもしれない。


 その予想は見事に的中した。この日を最後にして、吉田の姿を見たものは一人もいない。








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