第29話 セシルの日記:5 バケモノは……アタシだったんだ
じとり……と湿った空気がまとわりつく。あたしは真っ黒なフラスコの中で自分の体を見下ろしていた。絶え間なく続くノイズのような音が耳をさいなむ。
――ザーザーうるさい……。なんなの、この音……? ていうか、あたし、なにしてたんだっけ……。
「ぉごっ!?」
ゆらりと顔をあげた瞬間、息が出来なくなった。水が容赦なく口と鼻の中に入りこんできたからだ。
――苦し……溺れ……? 逃げなきゃ……下がる?
咄嗟に後ろに飛びのいたので壁に軽く背中をぶつけたが、それどころじゃない。口からはダラダラと水を垂らしたみっともない姿で肩を上下に揺らした。
「げほっげほっ! おえ……」
口を拭ってから、深く息を吸い込む。少し気分が落ち着いてきた。
「ふうー……よし、思い出してきた気がする」
改めて顔をあげて、目の前の壁にぶよぶよした腸のようなものがぶらさがっていることに気付く。膨らんだ先端部分からは水――正確にはお湯――がとめどなく溢れていた。蓮を思わせる穴だらけの見た目で気味が悪い。
「そうよ、これシャワーじゃない。なんでそんなことも忘れて……挙句に溺れかけるなんてどうかしてるわ」
閉塞感のある室内を見回して記憶を手繰り寄せる。えっと、コハクと交代でここに入って……。そう、シャワーを浴びているうちになんだか懐かしい感覚になって……それから、どうしたんだっけ?
「いっ!?」
突然の割れるような痛みにたまらず頭を抑える。ぎゅっと目をつぶって必死で耐えているとすぐに痛みは引いていった。この症状は最近になって起こるようになり、ふとした瞬間に襲ってくる。ゆっくりと目を開く。
「ああ、やっぱり」
さっきまで臓物に見えていたものが、今は白いチューブになっていた。
「なんなのよ……これ。今まで見てたのってなんだったの……」
最近になってからだ。ふとした瞬間に襲ってくる頭痛とともに景色が別のものに変わることがある。こんなものは今まで一度だって見たことがなかった。
「コハくんのために作られたみたい!」
顔を両手で覆いふらついていると、アズの楽し気な声が聞こえてきて、あたしは苛立ちを覚えた。あたしのコハクをたぶらかす忌々しい化け物め。
――違う!! アズはそんなんじゃない!!
すぐに自分自身の考えを否定する。もう、自分でもわかっていた。アズが化け物に見えているのはあたしだけだって。きっと、今見えているものが正しい世界なんだって。あの綺麗な女の人が……アズの本当の姿だって。
「そう……アズの姿が変わったのが、最初だったわね……」
剣を向けて、さんざん酷いことを言ったあたしに、アズは一緒に行こうと手をさし伸べてくれた。あのとき見た笑顔は今でも瞼に焼き付いている。それに、今では触手の姿でも表情が豊かなんだとわかってしまった。
「ずっと独りだったあたしの前に、2人は突然現れて、連れ出してくれた。なのに……あたしは、あたしは何もしてあげられてない」
ワンちゃんから守ってあげた気でいた。でも実際は、あたしの方が何度も助けられていた。あたしが眠ってるあいだに襲ってきたレオードとかいうヤツからも……。「気にしないで」ってコハクは笑ってたけど、ボロボロになった体を見ればどんなに辛い思いをしたのか一目瞭然だった。
「そ、それで! その鍵はどこで使うものなんですか!?」
コハクの元気いっぱいに響いた声があたしを満たしていく。
――ああ、なんてかわいい声。一生懸命で素直で優しい声。
元の世界に帰るために頑張ってて、危なっかしいけどちょっぴり逞しい男の子。小さな背中が愛おしくて両手を伸ばす。
「好き」
声はシャワーに掻き消された。想いは伝わらなくていい。出会えただけで、そばにいるだけで幸せだから。でも、そんなささやかな願いすら許されないのだと思い知る。
「……」
自分の手を自分で握る。絡み合った指を、手のひらまで滑らせる。そのまま手首を這って順番に自分の肉体をなぞっていく。傷ひとつない真っ白な両腕、すべすべのお腹、すらっと伸びた両足。
――全部、一度ぐちゃぐちゃに壊れている。
どんなに怪我しても、少し時間がたてば綺麗に元通り。こんなの普通じゃない。2人に出会って気づいてしまった。わかってしまった。あんなにアズを化け物と罵っておいて――
「本当の化け物は……あたし」
壁に背をつけて、そのままずりずりと座り込む。温かいシャワーが当たっているのに体は凍えたように震えていた。2人の楽しそうに話す声が聞こえてくる。すごく幸せそうだった。
「あたしは……こんなっ化け物は」
涙が頬を伝う。もう、すべてがいやになった。この綺麗な世界が大嫌いになった。
「コハクのっ……そばに、いるべきじゃ」
「うん、セシルくんがシャワーを出たら三人で一緒に行こうか」
――え?
意味がわからなかった。
「はい! みんなで行きましょう!」
――あたしも……いいの? こんな化け物、一緒にいていいの……?
口角がつり上がっていくのが自分でよくわかった。
「ふ、ふふ……ははははっははっはっははあははは!!!!」
「セシル!? どうしたの急に笑い出して!?」
コハクの心配する声がすぐ後ろから聞こえてくる。それがたまらなく嬉しかった。
「だいじょうぶー! ちょっと、ううん! とーってもいいことを思いついただけ!」
「ワタシを罵倒する語彙でも増えたのかな?」
アズの小ばかにしたような声も今は心地よかった。言葉の裏に隠された思いやりを感じるから。
「ふふ、そんなんじゃないわよ!」
「ふうん、どうだか……。それより、いつまでシャワーを浴びているつもりだい? そろそろ出発したいんだけど」
「もー、シャワーを急かすなんて……でも、そうよね。急がなきゃだわ」
頭から被って汚れも涙もモヤモヤも全部洗い流す。ふるふると顔を振ってからハンドルをひねりシャワーを止めた。
「焦らなくてもいいよ? もっとゆっくりしても……」
「ううん。もう、大丈夫だから!」
振り返ると世界はグロテスクで歪な姿に戻っていた。
「今、いくね」
大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせながら扉に手をかける。
――化け物には化け物なりに役割があるって分かったから大丈夫。2人は、あたしが絶対に守る。どうなろうとも。何をしてでも。
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