第71話 お別れ

 魔力量だけの話をすれば、俺はすでにルドックス先生やクルーブを上回っている。

 これは初めて会ったときからのことで、だからと言って戦って勝てるかというとそんな話ではない。

 ルドックス先生は幼少期よりおよそ7年近く俺のことを見続けてくれた。

 時に優しく……、うん、いつも優しくだ。

 この世界の魔法のすばらしさを見せてくれて、俺のどうにもならない悩みを受け止めてくれた。


「来れる日が減って申し訳ない。しかしルーサー様は優秀じゃから、自習させておくだけでメキメキ成長するから心配がないのう」

「いえ、そんなことはありません」

「謙遜することもあるまいて。クルーブとも仲良くしているようで何よりじゃ」

「……魔法に関して、尊敬すべき点が多いので」

「……仲良しじゃな」


 長く伸びた眉を上げて、見えた目をきらりと輝かせてルドックス先生は笑う。

 それから控えめに、ゴホッと湿った咳をした。


 ずいぶんと腕が細くなった。

 会話の間がほんの少し長くなった。


「さて、見て分かる通り儂も随分と老いた。調子のよい日はこうして散歩がてらやってくることができるが、いつそれができなくなるかもわからん」

「……明日からは僕が先生の家に通います。これまでもそうするべきでした」

「いやなに、ルーサー様に教えに来ることは、儂にとっていい運動になっておったんじゃよ。しかし、そろそろ基礎も応用も教えつくした。後は知っているか知らないかと、経験だけじゃと思うておる。じゃからルーサー様、これからはこの本を読み学ぶんじゃ」


 先生は重たそうに足元に置いた手提げを持ち上げて、デスクの上へ滑らし、中身を取り出す。

 きれいに装丁された、辞書のような分厚さの本が俺の前に差し出された。

 タイトルはない。


「儂がここ一年で書き上げたものじゃ。儂が魔法に関して知っていることを全て記しておいた。ぼかして書いている部分もあるんじゃが、それは教えたことを思い出せば理解できるはずじゃよ」

「……これからはこれを先生の家へもっていって教えを請えばいいんですね」


 髭を撫でながらルドックス先生は顔にくシャリと皺を寄せた。

 ああ、皺も増えたなぁ。


「わかっておるじゃろう?」


 俺は頷く。

 頷いてしまった。


「おいぼれとの約束じゃ。この本は信頼できるひとにしか見せてはならん」

「……はい」

「ルーサー様でなくば使ったら危うい魔法理論も記してある。研究途中の部分もあるから、ルーサー様も頭から信じ込まず、これが正しいかどうかきちんと自分で検証するんじゃよ?」

「わかりました」

「いい子じゃ」


 先生は枯れ枝のような腕を持ち上げて、俺の頭を撫でて大きく息を吐き、また湿った咳を幾度か繰り返した。


「……先生の体調は、治癒魔法で治らないのですか?」

「治らんよ。人のは寿命というものがあるんじゃ。先延ばしにできても、いつかは必ず訪れる」

「そう、ですか」


 先生に断言されると、それ以上俺はあがく気にもならなかった。

 そもそも俺、まだ治癒魔法使えないし。

 先生ほどの魔法使いだったら、自分に治癒魔法くらいかけていたはずだろう。


「さて、折角やってきたのだから、今日も講義をするとしようかのう」

「……お願いします」



 先生の帰り際、屋敷の門まで送っていく。

 片手に杖を突いてゆっくりと歩くルドックス先生の姿は、完全に老人だった。

 

 外までもう一歩というところで、先生はゆっくりと俺の方に体を向ける。


「ルーサー様よ、魔法は楽しいかのう」

「はい」

「そうかそうか。ルーサー様よ、生きているとたくさんの面白いことがあって、もしかしたらそれ以上の辛いことがある。それでも自分の心に嘘をつかなければ、概ね満足いく人生が送れるはずじゃ。大事なことは心と向き合い続けることじゃ。心は平気で主にも嘘をつくからのう」


 難しくてすぐには理解できそうにない。

 でもすごく大切なことを言われているような気がする。

 自分の中で幾度か繰り返して、分らないまでも記憶に刻み付けた。


「……はい」

「ふむ、ではこれでさらばじゃ」


 ルドックス先生の背筋がピンと伸びた。

 少し前に戻ったような錯覚を覚えて、それだけで少しだけ嬉しくなった。


「家に行ってはいけませんか?」


 思わず口をついて出た言葉に、先生はいたずらっぽく笑った。


「うむ、ルーサー様に情けない姿は見られたくないのう。どうしてもというのなら構わんが……?」

「……やめておきます」


 無理やり笑って見せたけど、きっと先生にはこっちの内心なんてお見通しなんだろうと思う。久しぶりにほっほと声を出して笑った先生は、そのまま門を押し開けて外へ出て行ってしまった。


「達者でのう、ルーサー様!」


 いつかこんな日が来るんだろうなと最近ずっと思っていたけれど、背中を見送るのは覚悟していた以上に辛い。

 思わず声をかけたくなるのを我慢していると、いつの間にかミーシャが横に並んでいた。


「ミーシャ……」

「はい」

「寂しい」


 ミーシャはイレインを除けば、俺が一番素直な言葉を伝えられる相手だ。

 俺はまだまだ子供だし、これくらい言ったっていいはずだ。

 先生だって、自分の心に嘘をつくなって言っていたし。


「そうですね」

「先生は本当に体調が悪いのかな。しゃんとしているように見える」

「…………ルーサー様に、元気な姿を覚えておいて欲しいのではないかと」


 なんだそれ、猫みたいだなぁ。

 猫って死期を悟ると姿をくらますんだって聞いたことがある。


 死期かぁ。


「……ミーシャ、寂しいなぁ」

「そうですね。代わりにはなれませんが、私はまだまだずっと、ルーサー様と一緒におりますので」

「うん……」


 いつも嬉しく思う言葉も、今日の心の隙間を埋めることはできなくて、咄嗟にお礼の言葉が出てこなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る