第7話想いを紡ぐ
夏登山シーズンも終盤を迎える頃。
一人の女性が、穂高の所属する山岳遭難救助隊を訪れた。
二十台後半と思われるその女性は、本条明日香(ほんじょうあすか)と名乗った。
「うちの人を助けていただき・・・・・・ありがとうございました」
深々と頭を下げるその女性は、涙ながらにそう言った。
皆、困惑した面持ちで顔で見合わせる。
「本条徹(ほんじょうとおる)は私の夫です。あの日・・・・・・滑落事故で大変ご迷惑をおかけ致しました」
皆一斉に「ああ」といった表情を浮かべたが、次の瞬間、皆俯いた。
助けてなどいない。決して助けてあげることなどできなかった。
なのに、この人は『助けてくれてありがとう』とどうして言えるのか・・・・・・。
その後、要救助者は病院で息を引き取ったとニュースで知った。
穂高は拳を握りしめると、悔しさに唇を強く噛みしめた。
「さあ、こちらへ・・・・・・立話もなんですから。どうぞおかけください」
皆各々椅子を持参し、来客者の腰かけるソファーの周りに着座する。
「あの日・・・・・・主人はどうして何も言わず、一人登山に出かけたのかわからないのです。
きっと、私のせいです。私があの人を死に追いやったのだと・・・・・・」
言葉を詰まらせ、涙ぐむ遺族の女性。
「何があったかは知りませんが、それは違うと思います。あれは事故でした」
居たたまれなくなった穂高がそう言った。
穂高を見て丁寧に頭を下げる女性。
「お恥ずかしい話ではありますが。単身赴任中の夫の浮気を疑った私は、久しぶりに自宅へ戻った夫を責め立ててしまい、喧嘩をしてしまいました。その後もお互い 意地を張り合い、連絡も交わさぬままこの事故に。病院から連絡を受けた時は驚きました。次にあった時にはもう・・・・・・これが夢であってくれたなら・・・・・・何度もそう思いました・・・・・・」
俯き涙ながらに語る女性。
「あの日つまらない喧嘩をしたばかりに・・・・・・伝えたいことも、謝ることすらできない今となっては、後悔しかありません。夫は、登山と写真を撮るのが趣味でした。あの日も何か撮影していたと思うのです。ただ、戻ってきたのはあの人だけで。私は夫がファインダーから見つめていたものが何なのかが知りたいのです。最期に見たものが何なのかが・・・・・・。そこには夫の想いが映しだされているように思えて。それがたとえ自分にとって残酷な結果であったとしても、あの人の想いを少しでも理解し寄り添ってあげたい・・・・・・そう、思えるようになりました。夫のカメラはどこに行ったかご存じですか?」
救助は命を優先するため個人の私物は回収されないことがある。
そういえばカメラで撮影中の滑落という情報だったが、救助時そのカメラに気づかなかった。
穂高はその時のことを回顧する。
岩肌の崖を下ると窪地に横たわっている男性が見えた。別の登山者が目撃したとされる要救助者と思われる。
背中に黄色いザックを背負ったままうつ伏せの状態で発見された。
男性は頭部から血を流し手足に明らかな骨折も見られた。
意識レベルの確認のため声をかけるが返答がない。呼吸は確認できず。橈骨で脈の触知不可。頸動脈でかろうじて触れた。
――生きている!
すぐさま気道確保を施し、助かってくれと穂高は強く願った。
一縷(いちる)の望みを託し、要救助者がヘリに収容される様を無言のまま追視しながら見守り、蒼穹の彼方に消えゆくヘリをただじっと見つめた。
その後、辺りを確認した。ザックと脱げた片方の登山靴、トレッキングポールは確認した。
だが、カメラらしきものを見た記憶がない。滑落した際、どこかに行ってしまったのか。
その事実を遺族の女性に告げると、がっかりした様子で帰って行った。
「隊長、滑落者の遺品のカメラを探しに行きたいのですが、許可をください」
穂高は彼の隊長に直談判した。
「それは許可できない。俺たちの任務は人命救助だ。物探しではない」
「ですが、遺族の心に寄り添ってあげることも山岳遭難救助隊としての責務なのではないでしょうか」
隊長に、食い下がる穂高。
「小僧、山をなめるなよ。件の滑落ポイントはな、この山を熟知したベテラン隊員ですら敬遠する場所だ。救助時に見つけられなかった遺品探しのために、隊員の命を危険な目に晒す訳にはいかない」
隊長の刃のように鋭い視線が穂高に突き刺さる。
「ですが、隊長!」
それでも怯むことなく、両の手を握りしめ一歩前へ踏み出す穂高。
「いいか。もう一度だけ言う。許可しない。諦めろ」
「・・・・・・」
「それから、本当の想いなんか知らない方がいいことだってあるんだ。あまり深入りしすぎるな。これは忠告だ」
「・・・・・・」
穂高は納得がいかなかった。
それを見ていた穂高の先輩にあたる藤堂は、彼の肩を後ろからガシッと掴むと、無言のまま苦笑いを浮かべてその場から去っていった。
――ならば・・・・・・
穂高はあることを思いついた。
その日、非番だった穂高は、朝日が昇る頃山頂を目指した。完全なるプライベート登山だ。
穂高は、夏の始まりに起きた滑落ポイントで足を止めた。
そのポイントは、傾斜と断崖絶壁からなる足場の悪い岩場だった。
穂高は脇の木にロープでセルフビレイをとり、懸垂下降のセットアップ準備を始めた。
準備が整うと、救助した時のようにゆっくりと下に向かって懸垂下降を開始した。
登りに比べ下りは難しい。懸垂下降は死亡事故に発展する恐れが高い。
岩場のところどころにある浮石は崩れやすく、足場が見えづらい状態での探り足は危険度が高い。
穂高は、途中の岩肌やその隙間に目を配りながら慎重に下降していった。
滑落した登山者が発見された場所に降り立つと、辺りを見渡した。
カメラらしきものは見あたらない。滑落時の衝撃で木っ端みじんに砕けでもしたか。
だが、破片すら見つからなかった。
穂高は更に崖下へ下降していった。途中足場の岩がガラガラと音をたて崩れ落ちた。
それでも、穂高は怯むことなく下っていく。
すると、急こう配の大小からなる岩の隙間にキラリと光を反射する物に目がとまった。
目を凝らして見る。穂高は宙につられた状態でその光る物に手を伸ばした。
届きそうで届かないそれは、カメラのようにも見えた。
ついに見つけたと思ったその瞬間、上からガラガラと落石が発生した。
「っ!」
穂高は咄嗟に宙づりのまま大きな岩下に身を隠し、落石の直撃を免れることができた。
――危なかった・・・・・・直撃を受けでもしたら気でも失っていただろうか・・・・・・否、それくらいで済めばの話だが・・・・・・
背筋に冷たい水を浴びたようなヒヤリとした感じがした。
隊長の言っていた意味を、今更の如く実感する穂高。それでもめげずに、落石が落ち着いたところで再びトライした。
穂高は、宙づりの状態で目の前の大きな岩を思い切り蹴り、その反動で岩の隙間に勢いよく接近したその時、その手に掴んだ。
――ここだろうか
穂高はとある家のインターホンを鳴らした。
「あの、突然ですみません。穂高と申します。本条さんのお宅でしょうか?本条明日香さんにお会いしたいのですが・・・・・・」
穂高は滑落した登山者の家族を訪れていた。
ガチャリと開かれた扉の下から、黒曜石の双眸がぱちりぱちりと瞬きながら穂高を見上げていた。
穂高は線香をたてると、遺影に向かって丁寧に手を合わせた。
「どうぞこちらへ。暑い中、遠くからわざわざお越しいただき、主人も感謝していることでしょう」
先程見かけた三、四歳の幼い女の子が穂高に屈託のない笑顔で微笑んだ。
自分は微笑を送られるような人間ではないと。この子の父親を助けてあげられなかった罪悪感に駆られた穂高は、悲しみを含んだ微笑で答えた。
「あの・・・・・・今日はこれをお渡ししたくて・・・・・・」
穂高は、リュックから大事そうにそれを取りだすと、両手でそっとテーブルの上に置いた。
「これは・・・・・・」
それを見た登山者の妻は、声を詰まらせた。
静かに流した涙はやがて嗚咽に変わっていった。
「ママ?どうしたの?ねぇ、ママ・・・・・・」
それは、要救助者が滑落した際紛失したカメラだった。
レンズや液晶は亀裂が生じ、割れやへこみで変形したそれがカメラであることを一見しただけではわからないフォルムに姿を変えていた。
それは見るからに残酷で、滑落時の衝撃の凄まじさを感じさせるものだった。
「これを・・・・・・あなたが、見つけ出してくれたのですか?」
遺族の妻は、震える両手でカメラを包み込み胸に抱きしめると、声を上げて泣いた。
「トオル・・・・・・ごめんなさい・・・・・・許して・・・・・・」
幼い女の子は「泣かないで、ママ」そう言って母親の背を抱きしめるように寄り添った。
「ありがとう・・・・・・ありがとうございます・・・・・・夫の想いを掬い上げてくれて・・・・・・
ありがとう・・・・・・」
そこに何が映っているかは分からない。家族の期待と裏腹に、がっかりさせるものかも知れない。
だが『たとえ自分にとって残酷な結果であったとしても、あの人の想いを少しでも理解し寄り添ってあげたい』そう話した要救助者の妻。
もう使い物にならないであろうそれは、夫の想いと共に家族のもとに返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます