第4話 思い出と友達
長袖シャツの袖を巻くる。ベーコンを焼いているフライパンに卵を2つ割った美零の横に並び焼きあがったトーストにマーガリンを塗るためだ。自分と美零が飲むコーヒー、誠一が飲むお茶、二優花が飲む牛乳を準備していた零太はトイレに行った。
「誠一。ちょっと二優花を起こしてきてくれない?」
火加減を慎重に見ながら、なかなか起きてこない二優花を気にかけていた。
「分かった」
「ごめんね。ありがと」
フライパンを見たままそう言われて、誠一は2階に上がり二優花の部屋の扉をノックした。
「二優花~。もう、朝ご飯できるよ~」
ドアを開けるとベッドの上ですやすやと眠る二優花の姿があった。誠一は二優花の横にしゃがみ込み肩をゆすった。
「二優花。早く起きないとご飯食べる時間なくなるよ」
「う~ん……」
のっそりとこちらに寝がえりをうち、綺麗にふさがっている瞼に隙間ができた。
「あれ……? お兄ちゃんが人間に戻ってる……」
「寝ぼけてないで早く降りておいで」
「あ〜……、待ってよ〜……」
さっさと部屋を出た誠一を追いかけるようにしてベッドを出た。
「二優花おはよ。ご飯できたよ」
「う〜ん……」
リビングに降りてきたものの、まだ頭がぼんやりしていた。
「もう~、先に顔洗っておいで」
「は〜い……」
とぼとぼ洗面所に歩いていると、手を洗っていた零太がちょうど出てきた。
「おはよう二優花」
「おはよ……」
「なんだかテンションが低いな」
「お父さんに言われたくない」
冷たくそう言って洗面所のドアをできる限り強く閉めた。
玄関に座りランドセルをすぐ横に置いた。
「待って待って! 私も行く」
ランドセルを片側だけ背負った二優花が走ってきた。
「危ない危ないっ」
玄関に滑り込んだ二優花に、美零は乾いた言葉で心配した。
「行ってきます」
「行ってきます!」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
2つの背中を見送ることが、美零の日課だった。
誠一と二優花はたまにこうして一緒に学校に行っていた。今は春先。学年が上がって間もない頃だった。
「お兄ちゃんはもう6年生か~。あっという間だな~」
「二優花もいつの間にか3年生だもんね」
「私ももうお姉さんか~」
美零が結んでもらった2束の髪が、弾み歩くたびにぴょんぴょん跳ねている。
明るい朝だった。
教室の扉を開ける。横引きの扉は動く振動でがたがた音を立てる。それに合わせて、扉の上部中央にあるガラスも振動してがしゃがしゃ音を立てる。教室内が騒がしくてもこの独特な音は教室中に響き渡り、人の出入りを知らせる。
「あ、せいいち君おはよう!」
「せいいちおはよ!」
「あきづきおはよ~」
毎日、学校に来るとみんなが挨拶をしてくれた。普通のことだとは分かっていてもそれが嬉しかった。
「おはよう」
挨拶を返しながら席に歩いた。机の上にランドセルを置いて、男の子3人で話をしているところに近づいた。
「浦木君、おはよ」
「おお、せいいち。おはよ」
2年続きで同じクラスになった浦木という男の子。浦木はいつもクラスの中心にいる人物だった。
「昨日おすすめした番組、見た?」
わくわくしながら浦木に尋ねた。今日はその話をするのがひとつの楽しみだった。
「あ~ごめん。ちょっといろいろあって見れなかったんだよな」
「そ、そっか」
楽しそうにしていた感情がおさまった。
「それよりさ、算数で分からないところあって。教えてくれない?」
「ああ、うん。いいよ」
浦木とはよく話したり、勉強で分からないところを教えたりしていた。自分のことを必要としてくれる浦木を、友達だと思っていた。
昼休みが終わるとそのまま清掃の時間になる。全校生徒が分担して学校内を清掃するため、教室やその前の廊下以外の清掃場所は様々な学年が集まる。生徒たちにとって清掃の時間は、普段あまりない他学年の生徒との交流を行える時間でもあった。
階段の踊り場を掃除しながらふと窓の外を見た。すると、低学年と思われる小さな女の子が、大きなごみ袋を身体いっぱいで抱えているのが見えた。歩いている方向から考えて、ゴミ捨て場に向かっているようだった。
誠一はほうきを壁に立てかけて階段を駆け下りた。靴箱を清掃している人に謝りながら下靴に履き替えた。すぐ目の前の広場を女の子は歩いていた。
「大丈夫?」
誠一の声に反応したためか、保っていたバランスが崩れゴミ袋を落としそうになった。
「おっと。ごめんね」
ゴミ袋と女の子を支えると、小さな瞳がこちらを見た。
「手伝うよ。ゴミ捨て場がどこにあるかは分かる?」
何も言わずに首を横に振った。
「よし。じゃあ、今日覚えよう」
ゴミ袋を一緒に持ったままゴミ捨て場まで歩いた。
「ここがゴミ捨て場ね。持ってきたら委員の人に渡せばいいから」
誠一の顔をじっと見つめて話を聞いた後、一緒にゴミ袋を渡した。
「は〜い。ありがとう」
委員の人は目線を女の子に合わせ優しく微笑んでくれた。その笑顔に、少し照れくさそうにしていた。
靴箱の近くまで来て立ち止まった。時計を見上げると、清掃が終わる間際だった。
「やばっ。気をつけてね」
チャイムが鳴ったと同時に軽く手を振って、靴箱に駆け込もうとした。
「――ソウ……」
何か言われた気がして振り向いた。
「ん?」
女の子は両手で着ていたトレーナーを握りしめている。可愛い花のイラストがあった。
「か、カスミソウ……!」
よく聞きとることができず言葉を返せなかった。その空気に耐えられなかったのか、女の子は顔を真っ赤にして反対側の靴箱に走って行ってしまった。
夕方の帰り道。風はなかったが肌寒かった。
「誠一は勉強どう?」
竜翔に聞かれて、返事を考えた。
「ん〜……。やってるつもりだけど~……」
苦笑いを浮かべた。
「分かる〜」
誠一の言葉にどこかほっとしたようだった。
「ねえ、そういえばさ」
いつもよりも道が静かな気がした。本当は、もう少し騒がしいのかもしれない。
「受かったら、みんなと離れ離れなんだよな」
大半の中学受験をしない同級生たちは、同じ中学校に進学する。誠一と竜翔だけが違う学校に進学する可能性があった。
「そう、だね」
遠くに見えるオレンジ色が寂しさを引き立ててくる。
「だからこそ、残り時間を楽しむ。僕はそう決めてるよ」
その雰囲気に吞まれないように強がった。
「……そうだな」
本音が言えたら、またいつものテンションが帰ってきた。
「それで落ちたら2人で大笑いされるよ」
「冗談でも言っちゃだめよそんなこと……」
「ごめんごめん」
暗く静かな誠一の声に、竜翔は笑いながら謝った。
「あ」
その時、何かに気づいた誠一は足を止めた。
「ごめん。忘れ物した」
「何を?」
竜翔が振り向く。
「筆箱」
「えぇ〜……。どうやったら筆箱を忘れるんだよ」
両肩を落とし、少し引いているような反応だった。
「取ってくるから先に帰ってて」
「分かった。気を付けてな」
「うん。またね」
誠一は走って来た道を戻った。
階段を登り教室がある階に着くと、すぐ突き当たりがある。そこを右に曲がって2つ目の教室が誠一のクラスだった。
「おっけい! 日曜日、お昼ご飯食べたら集合な」
誰かは分からない話し声が聞こえて、とっさに壁に背を当て隠れた。
「あ、そうだ浦木。あの人は誘わないの?」
名前を聞いてどくんと心臓が鳴った。浦木たちが話していたことを知り「あの人」が指す人物を考えてしまった。
「ほら、よく一緒に話してる人」
この話し手は聞き慣れない声から考えて、他クラスの人だろうと思った。
「ああ、せいいちのこと?」
「分からないけど、たぶんその人」
「誘わないよ」
半笑いでそう言っているのが聞こえた。
「えーなんで」
「大体、お前の知らない人だろ」
「そうだけど、仲良しじゃなかったの?」
「やめろ違うよ」
心の真ん中をつんと刺されたような感覚がして、震えが全身に広がった。冷たかった。
「頭いいから、勉強のこと聞いてるだけだよ。あんないい子ちゃん、俺合わないし」
「ひっど」
そう言いながらも笑っている。
「いや、でもそうなんだって」
聞き覚えのある別の声がした。
「優しい人って思われたいのか知らないけど、やたらと手伝いたがるよな」
「いいことじゃん」
「俺も浦木から聞いててそう思ってたんだけど、同じクラスになったら分かる。さすがにうっとうしい」
帰りたかったが、足をうまく動かせそうになかった。
「今日もさ、掃除中に急にどっか行ったと思ったら低学年のゴミ捨て手伝ってて」
「ええ、そこまできたら笑えそうだけどな」
「どこがだよ。残ってたあいつの場所掃除させられて、道具も俺が全部片づけて」
「ほうきの数本なんて変わらないだろ」
「積み重ねだよ積み重ね」
それから「なんの話だよ」と言いながら、浦木たちは帰って行った。
夜ご飯で使った食器を美零が洗う。それを手渡された零太は持ったタオルで拭いてから、1つずつ棚に戻した。
「美零」
「ん~?」
手際よく洗っていく美零に対して、零太は拭きあげるペースが落ちていた。
「誠一から、何か聞いてないか」
「何かって?」
「元気がないような気がしたんだ」
水を止めて振り返った。
「零太も思った?」
「ああ。何というか、嫌な感じの元気のなさだった」
蛇口に手を置いたまま、美零は少し考えた。
「ちょっと、声かけてあげて。後は私がやっとくから」
「分かった。ありがとう」
扉をノックすると、中から誠一の返事が聞こえた。
「どうしたの?」
「まあまあまあ」
零太は床に座り込んだ。
「お父さんとお母さんが出会ったのは大学生の時で――」
「ちょちょちょ、なに急に」
「馴れ初め。話したことないなと思って」
「そうじゃなくて、なんで今急に?」
「落ち込んでるみたいだから、元気が出る話をと思って」
笑うしかなかった。
「お父さん、不器用すぎでしょ」
「何言ってる。学生時代から裁縫は得意だ。知ってるだろ」
洋服の取れたボタンや破れてしまった部分など、零太は度々その力を発揮していた。
「今日ね、学校に筆箱忘れたんだ。それが情けなくて、自分に呆れてただけだよ」
誠一は本音みたいに言った。
「筆箱か」
「うん」
秒針を刻む音が鮮明に聞こえる。
いつしか美零が言っていた。あの人といると知らないうちに心のひもが緩んでしまう、と。その不思議な雰囲気を、自分が引いていると言われたこともあった。
こんなことを思い出しているのは、きっと、今そうだからだと思った。
「お父さん」
零太が顔をあげた。
「もしさ、友達だと思ってた人が、向こうはそう思ってなかったって知ったら、どう?」
慎重にそう尋ねた誠一に、零太は答えた。
「辛いな。それは」
零太は続けて言った。
「でも、運が悪かったと開き直るかもな」
「運?」
「その人には自分が合わなかったのは仕方ない。運が悪かったんだとな」
「で、でも、合わなかったのは自分のせいで、自分が悪かったとしたら……」
ぐちゃぐちゃな頭の中を整理して伝えようとしているのを、零太は何も言わず静かに待った。
「正しいと思ってやってたことが間違いで、本当は人を嫌な気持ちにさせてて、悪いのは全部自分で――」
こみ上げる何かを必死にせき止めていた。
「誠一。優しさなんていうのは、ただの自己満足なんだ。だから、誰にも伝わらなくていい。分かってもらわなくていい」
そう言って零太は立ち上がり、誠一の頭を手のひらで包んだ。
「自分がそうしたいと、大切だと思ってしたことだ。なんて言われても、わがままですみませんねって言ってやれ」
だせる力では足りず、零太の顔がどんどん滲んでいく。
「どこまでも欲張りでいれば、その自己満足に『ありがとう』って言ってくれる人に、その自己満足を『優しさ』って言ってくれる人に絶対に出会える」
瞬きするたびに、頬が濡れた。
「誠一は、そんな人たちを心から大切にできる子だと、お父さんは知ってる」
滲んだ視界からでも伝わる暖かい笑顔だった。
誠一は、零太の肩で思いっきり泣いた。
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