第十八幕 迷道

 準備室を出た蒼汰は、黙ってその場を離れようとした。しかし、彼が歩き出そうとした次の瞬間に何処かで聞き覚えのある人の声が彼の耳に入ってきた。


「……大丈夫ですか? 風上君」


 ふと、蒼汰が振り返ってみるとそこには、さっき泉と一緒に廊下を歩いていた教師の姿があった。



「……あ、えーっと……先生」


「加藤です。ゆっくりで良いので覚えてくださいね」


 加藤先生は、そういうと蒼汰に対してとてもニッコリ微笑んで、彼の身を案じた。


「……大丈夫ですか? その体中の汗……引きつった顔。何かありましたか?」


 蒼汰は、加藤先生に指摘されて初めて、自分の体を流れていた汗の存在に気づき、そして自分の表情も若干、引きつったものになっていた事を知る。彼は慌てて首元などに付着した汗を征服の袖で拭いたりして胡麻化そうとする。


「……あっ、あぁいや……別に何でもない。……です」


 すると、加藤先生はとても親切そうに微笑みながら蒼汰に向かって優しい声で告げた。


「……もし、何か悩みなどありましたら、どうか私や他の先生たちを頼ってくださいね」


 その言葉に蒼汰は、なんだか照れ臭い気分になって頭をポリポリかきながら少しニヤけた顔で加藤先生の言葉を返すのだった。


「……あっ、ありがとうございます!」


 蒼汰にとって、この学園に入って初めて教師から優しくされた感覚だった。それもそのはず……市ヶ谷侍塾だけでなく現代の侍世界において、蒼汰のような下級の武士に優しくしようだなんて思う上級武士たちの方がむしろ珍しい方なのである。この現代、いまだに古い時代の士農工商思想のようなものが、若干残っているわけなのだが、しかし……武士たちは、自分たちよりも身分の低い百姓や職人を差別するのではなく、むしろ逆に同じ武士階級でも下にいる存在を嘲笑うようになった。



 これは、江戸時代という封建的侍の時代が終わり、近代的な社会制度や思想が取り入れられた事で余計に加速した問題でもあった。もはや、自分だけの家来を持つ必要もなくなった現代の大多数の上級武士たちは、自分たちの下にいる下級の武士や元平民上がりの武士たちを小馬鹿にして鬱憤を晴らす。


 この市ヶ谷侍塾も例外ではなく、例えば蒼汰にノートを運ばせた大友という教師もこの思想の持ち主であったと蒼汰は感じていた。


 ――それが、この世界の普通。別におかしな話なんかじゃない。けど……この先生は、珍しい。今時、下級の武士にもこんな丁寧な対応をする人の方が少ない……。


 蒼汰は、いつの間にか加藤先生の事をじーっと見つめたまま黙ってしまった。


「……どうかいたしましたか?」


 そんな彼の視線に気づいた加藤は、疑問に思いながら蒼汰に尋ねる。すると、彼はぼーっとしていた意識をハッと起こして、すぐに慌てた様子で加藤の目をしっかり見ながら言うのだった。


「……すっ、すまん。です。 ちょっと、ぼーっとしてしまって……」


すると、またしても加藤は蒼汰に対して優しく心配するような顔で彼の事をのぞき込むようにして顔色を伺いながら告げた。


「……そういえば、あなた……なんだか、寝不足みたいですね。どうしました? 何か悩みでもあるんですか? 歩きながらで構わないので……先生に話してみてください」


「……」


 加藤のあまりの善人ぶりに蒼汰は、少し一瞬だけ言葉を詰まらせた。これまであった事を一度誰かに思いっきりぶちまけたいと思う一方で……。


 ――いくら、先生だからって……泉の暗殺に関して喋るわけにも行かないよなぁ……。


 悩みの果てに蒼汰は、泉に関する情報は伏せながら加藤に正直に話をする事にした。


「……実は、入学してすぐに友人ができたのだが……」


 そして、今日までいまいち眠る事も出来ていない事までしっかり話すと、加藤はとても感慨深そうにコクリと頷きながら蒼汰の言葉の一つ一つに納得し、やがて返事を返した。


「……なるほど。そういうことがあったのですね。それは、大変です。しかし、自分の中にモヤモヤが残ったままでは、良くないですね」


「はい……。でも、俺はその友人にかまってられないんです。俺は、どうしても……八百万奉行に入らなきゃいけなくて……」


「……ふむ。しかし、今のままではおそらく……勉強に集中する事は当分無理でしょうね」


「……俺は、どうしたら良いんですか?」


 蒼汰が、下級武士クラスが立ち並ぶ廊下を加藤と共に歩きながらそう話す。自分と同学年の生徒たちが教室移動などで廊下を歩き、通り過ぎていく中で彼と加藤は、反対側に向かって歩きながら話をし続けたのだった。


 そんな中、加藤が蒼汰から視線を外して……上を向きながら口を開くのだった。


「……あなたは、この学園を卒業してすぐに八百万奉行へ行くつもりなのですか?」


「はい……。そのつもりで、ずっと頑張って……」


「ふむ……。貴方の身に何があって……それで、どうして八百万奉行を目指しているのかは、わかりませんが……しかし、まだお若いからこそ貴方にお話ししておこうと思います」


「はい……?」


「人生というのは……貴方が計画しているようなものが順調に達成されていくほど……計画通りという言葉が似合わないものですよ。貴方は、一日のスケジュールを毎日、常に一分一秒と寸分のズレもなく理想通りにこなし続ける事ができますか?」


「……いっいや、それは流石に……」


「ないですよね? それと同じです。私たち人間は、その日一日のスケジュールでさえ完全完璧にこなす事などできないというのに……人生という何十年という長いスパンの計画を達成する事なんて不可能です」


「……それは、俺が……八百万奉行にはなれないと言いたいのですか?」


 ――結局、善人ずらしてこの教師も他の教師と同じ……下級の俺には、無理だとか思っているのだろうか……。


 しかし、そんな思いを裏切るかのように加藤は、告げた。


「……いいえ。それは、もしかしたら最終的になれます。けど、貴方の計画通りになる事は難しいでしょう。大事な事は、なりたいものになれるかどうかじゃないですよ。風上君。……それよりも計画が狂っても続行できるか否かです。そもそもね、私は思うんですよ。下手な計画を練るよりも……その時その時にするべき経験を積みにいけるかだと思うのですよ。そのために必要な時間は、人生の中で沢山あります。それも何十年とね……。だから、こだわりを持たずに生きてみてください」


 そう言うと加藤は、蒼汰の傍から離れていき、ちょうど真横にあった階段を上に上がっていき、踊り場に到着する直前で片足を一段上に乗せたまま蒼汰に告げた。


「……私は、そろそろ次の授業の準備をしなきゃいけませんね。また、会いましょう。まぁ、私は上級武士のクラスを教えている教師ですから……これから会う事はあまりないかもしれませんが……」


 そうして、先生が上へ上がっていこうとした寸前、今度は蒼汰が咄嗟に声を発して加藤の事を止めた。


「……先生! 一つだけ最後に聞かせてください! 先生は、どうして……下級武士のこんな俺にも優しくするんですか? 普通は、皆……俺たちの事を少し見下すのに……」


 加藤は、階段の踊り場の付近で止まったまま……蒼汰の方を振り返る事なく背中を向けたまま答えた。




「……同感していたからです」


 そう言うと加藤は、そのまま……上へ階段を上がっていき、それっきり蒼汰の方を振り返る事はなかった。


 残された蒼汰は、無言のまま立ち尽くしていた。

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