第十六幕 集中不能
「……」
いつもの日常が帰ってきた。蒼汰にとって、いつもの平和な日常が帰って来たのだ。朝に早起きして鍛練を積み、学校に行って授業を受けて、しっかり学んだところで昼食を取り、そして昼食の時間も勉強をする。午後の授業を受け終わったらすぐに寮に戻って……明日の授業の予習復習を行う。
彼が、入学前に理想としていた日常の姿が戻って来たのだ。ようやく、彼はこの生活を掴む事ができた。
――なのに、どうしてなんだろう……。
蒼汰の頭の中は、ずっと泉の事でいっぱいだった。授業を受けている時も朝の鍛錬をしている時も……体じゃしっかり学んでいるはずなのに……心にまでそれが染み渡っちゃいなかった。どうしてだか、1つ1つの鍛錬に集中できない。蒼汰の頭の中では、ずっとある言葉が引っかかっていたのだ。
「……私は、まだ将軍にはなっていないのよ。か……」
――そんな事は、知っている。最初に説明を受けている。泉が将軍を正式に継いでいない事など。……というか、もしも将軍を継いでいたら……この学校にだっていられないだろうに……。それなのに、どうしてこんなに頭の中から離れないのだろう。この言葉が……。
――俺が、将軍様って呼んでいたのが、気に入らなかった? でも、それは……毎回毎回、将軍の跡取り候補さんとか言うのが面倒だったし、将軍の娘さんっていうのもなんか……俺とあの人は同級生なのに……同級生に対して娘さんって……お父さんの所に結婚の許しを貰いに行く男かよという話しだ。
じゃあ、一体どうしてあんな事を言ったのか? それがずっと蒼汰の頭の中を支配していた。そのせいで、夜もあんまりよく熟睡できてはいないのだった。
――朝の目覚めも前と全然変わらないし……授業にも集中できない。食欲もいまいちだ……。こんな調子で俺は……。
「……良いか? 詩術というのは、個々の詩力の大きさによって強さも変わって来る。これは、鍛錬次第で上げることもできるが、残念ながら詩力というのは、ある程度生まれた段階で決まっちまっているものでもあるんだ……」
授業をしている教師の声が耳に入って来るのに……頭では理解できない。しっかり吸収できている感じがしないのだ。蒼汰は……なんだか、集中できない。
「……そこで、詩力を高めるために江戸混乱期の武士達のために用意されたのが……この印籠で……」
――ダメだ……。授業の内容が全く頭に入って来ない。今、何の話をしているんだ? ノートもろくにとれてない。俺は、どうしてこんなにも悩んでいるんだ。何をうじうじと悩んでいるんだ……。その答えも分からないから余計に……余計に悩んでしまう。これじゃあ、負の
次の授業になっても……蒼汰の気は晴れず……何をやっても集中できない様子だ。彼は、椅子に座ったまま筆を持って、筆から垂れる墨汁の黒い雫がポタポタ……と落ちていくのをぼーっと眺めていた。そのうちにまたしても授業は終わってしまう。
すると、授業終了のチャイムが教室中に鳴り響く中、さっき授業をしていた教師が突然、蒼汰の元に現れた。
「……はぇ?」
間抜けな声が漏れた蒼汰だったが、教師の方を見てみると、彼はとても怒った様子で蒼汰の事を見ていた。
「……えーっと、どうかしましたか?」
蒼汰が、恐る恐る教師の事を下から覗き込むようにして見てみると、中年くらいの年の見た目をした男性教師は、凄くイライラした様子でため息交じりに告げた。
「……風上君、君……授業は、ちゃんと受けなきゃダメだよね?」
「……あっ、あぁ……えっと、すいません」
「はぁ、全く……これだから、下級クラスは……。罰として、教卓の上に置いてある提出用ノートを運んで行って貰うからね」
「……は、はい」
*
「あぁ、大友先生! 今、授業帰りですか?」
「……あぁ~、加藤先生ですか。これはこれは」
「……この隣でノートを運んでいる生徒は?」
「いや実はね、私の授業を全く聞かないで……50分間ずっとぼーっとしたまま座っていたやつでしてね……これだから、下級の武士ってのは困っちまいますよね~」
「ははは、まぁまぁ……そう怒らないでくださいよ」
廊下で蒼汰と大友は、歩いていた。といっても、並んで歩いていたわけではない。大友が前、蒼汰は後ろだ。最初こそ蒼汰は、並んで歩こうとしたが……それを大友は、拒否。何とも、下級の武士とは歩きたくない。自分の位が下がりそうだとの事。
普段の蒼汰ならこの一言でちょっとイラっと来てしまう所だったが、生憎今の蒼汰には何も響いてはこない。彼は、ボーっとしたままだった。
――この時までは。
「……あれ? というか、加藤先生!? その隣で……ノートを運んでいるのって!?」
突然、大友の様子がおかしくなった。最初こそ蒼汰は、ボーっとしていてそんな事などどうでも良いと思っていたのだが……しかし、ボーっとした眼差しで大友が驚いていた視線の先を見てみるとそこには、見知った1人の女子生徒の姿があったのだ。
もう1人の教師、加藤は困った口調で告げた。
「……いやぁ、それが……どうしても運びたいと言って聞かなくて……」
そこにいたのは、美しい花飾りと黒く艶のある美しい髪の毛を持った高貴な見た目の少女……。
「……泉!?」
つい、驚いてしまって咄嗟にその名が出てしまった蒼汰だったが、これを大友は聞き逃したりしない。彼はすぐに後ろでノートを持って歩いていた蒼汰に向かって思いっきり蹴りをいれた。その突然の蹴りに避ける事のできなかった蒼汰は、驚いたまま攻撃をくらってしまい、廊下を転がって行った。
大友は、告げた。
「……貴様! 将軍家の御方に対して……名前を呼び捨てるとは、いくら学生であったとしても……それだけは断じて許される事じゃない! 下級武士風情が……将軍家の御方に……なんたる侮辱! 私が今ここで成敗してくれる!」
彼は、本当に怒っている様子で蒼汰の事を蔑んだ目で見ていたが、しかしそこにノートを持った状態の泉が蒼汰の前に現れて、大友に言った。
「……落ち着いて下さい。先生。私は別に気にしてなどいません!」
「……なっ!? 泉様! そこをお退きください。こればかりは、ここ私の気が済みませぬ。今すぐに奴を……」
「……お辞め! 5つ数え終わるまでの間にその刀をしまわねば、私が彼の代わりに相手を致しましょう」
「……泉!?」
流石の蒼汰もこれには驚いた。教師と決闘までしようだなんて前代未聞すぎる。大友もこれには、さっきまでの威勢もなくなり、小さな声で喋るのであった。
「……しっ、しかし……そやつは……」
だが、そんな大友に対して泉は引き下がるどころかむしろ、強気に言うのだった。
「5、4、3……」
大友はすぐに刀を鞘に収めて和服を整えた後に一礼をすると、すぐに後ろを向いて早歩きで立ち去っていった。
去り際に彼は、言った。
「……お、覚えていろ! 下級武士め! 今回は将軍様の優しさがあって救われたが……いまに見ておれ……」
そんな捨て台詞と共に大友はいなくなり、後を追う形で加藤という教師もその場からいなくなった。
残された泉と蒼汰は、蒼汰が蹴り上げられた時に廊下のあちこちにばら撒いてしまったノートを一緒に拾って、それから2人一緒に立ち上がってノートを置くために授業準備室を目指して歩く事を再開する。その時に蒼汰は、泉に礼を言おうとするが……。
「……あぁ、大丈夫よ。気にしないで」
彼女のとても素っ気ない態度で返されて蒼汰はポカンと口を開くのだった。
──礼を言おうとしただけなのに……。
その時またしても泉の言葉が蒼汰の心の中で蘇る。
「……私は、まだ将軍にはなっていないのよ」
「……くそっ」
蒼汰は、舌打ちをして泉と共に準備室を目指した。
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