第十五幕 各々之思意
「……いっ、いや! ちょっ……ちょっと待ってくれ。確かに今までの将軍様に対する態度は、酷かったと思う。それに関しては……その……確かに謝る。けど、ちょっと待て! 俺は、さっき決闘を終えたばっかりなんだぞ!? それなのに……また戦えって言いたいのか!?」
風上は、驚くとかそういう感情を飛び越えていた。今のこの状況をどういう思いでいられれば良いのか……自分でも分からない様子。
しかし、相変わらず小太刀をしまおうとしない忍びの者……半蔵というくノ一(?)は、変わらず蒼汰の事を睨みつけていた。彼女のまるで鋭く尖った針のような眼差しに蒼汰は……少しゾッとした。
――なんだ。この子? ……小学生とは、思えない眼力。確かに……将軍が警告を促すだけは、ありそうだ……。この子のこのオーラ……確かにヤバイ気がする……。
すると、風上の額から一筋の汗が流れ落ちて行き、彼の頬にまでそれが到達しようとしたその時、半蔵の針のように鋭い眼差しが一瞬だけ更に鋭くなった。
刹那、半蔵の小太刀を持っていた手が一瞬だけ上に動き、サッと一筆書きでもするかの如く、蒼汰の頬に流れ落ちてきた一粒の汗に向かって小太刀が蒼汰と半蔵の間に存在する空間で弧を描き、蒼汰の流した冷や汗が……一瞬のうちに蒼汰の頬から消えてしまう。
「……!?」
――今のは一体!? 俺の汗が……。汗だけが……頬っぺたは、全く傷つけられていない!? 汗だけが……斬り裂かれた!?
「……わっちは、狙ったものは必ず斬り裂く。例えそれが……どんなに小さかったり、液体であったとしても……どんなものでも。この目で見たものは全て……わっちは、斬り裂ける」
「……!?」
汗だけを斬り裂いたさっきのを見た蒼汰には、この話も本当の事のようにしか思えない。いや、間違いなくこの少女は真実を語っているのだろうと……彼も分かった。
――そして、それが本当なのだと分かったのなら余計に将軍様の言った事の信憑性が増してくる……。今の状態で……もう一回決闘をしようだなんて……俺の体力が持たない! それどころか、この子の場合は、決闘だろうと何だろうと確実に仕留めてきそうな怖さが少し感じられる……。
蒼汰は、固まった。彼は、いつも自分の腰につけている真剣を抜くのがとても重たく感じられた。……それは、今ここで刀を抜くと言う事がすなわち、自らの命を敵に捧げようという意味に繋がって来る可能性があるからであった。自分の命もかかったこの状況で……刀を抜く事がこれ程に重いと感じたのは、蒼汰にとって今回が初めて……。
――いや、前にもこう言う事はあった。あったが……敵に対してこう思った事は……初めてかもしれない。流石は、徳川家に長年使えている忍びの者……影ながら徳川家を何代にも渡って支え続けた家の者は……殺意の質も違う!
蒼汰は、更に抜く事のできない自分の刀の持ち手をぎゅっと握りしめたままこうも考えた。
――何とか、この場を収める方法は……和解策は……。
だが、蒼汰自身にもこの場において和解など不可能である事は、容易に理解できていた。いや、正確に言うなら……自分の手でこの場をうまく収める事などできやしない事を理解していたのだ。
――将軍様などが動いてくれれば……あるいは……。
すると、ここで彼にとって好機が訪れる。それは、蒼汰達よりももっと教室の奥側に座っていた泉が急に立ち上がり始めて2人に向かって少し怒気の籠った声で告げるのだった。
「……いい加減にしなさい! 2人とも。ここは、神聖な学び舎よ! 戦うための場所ではない事をわきまえなさい! だいたい、今は授業中なのだからもっと静かになさい!」
その言葉に……どうしてだか、自然と2人はお互いに武器を持っていた手を離したり、武器をしまったりして……一触即発な状況を終わらせるのであった。それから、半蔵の方が……小太刀と手裏剣を何処かに隠した状態で泉に対して深く反省した声で地面に膝をつき、頭を下げた状態で告げた。
「……申し訳ございませぬ。泉様」
少女の頭を下げる姿にまだ、他に何か言いたげだった泉も自分の気持ちをグッと抑えて……無言でコクリと頷く。しかし、すぐに半蔵の後ろに立っていた1人の男に目を向ける。
そこには、特に謝罪もなしにポツンと立っているだけの風上蒼汰の姿があった。彼女は、蒼汰と目が合うや否や……ムッとした顔で蒼汰の事を睨みつけた。
すると、当然蒼汰も……少し慌てた様子で頭を下げて大きな少し裏返った声で謝るのであった。
「……おっ、俺も申し訳ない!」
――目が合っただけでつい、謝っちまった。……これが、将軍様の眼光ってやつなのか。なんだか、反射的に……つい頭を下げちまったが……いやしかし、何とかこの場を収めてくれてありがたい限りだ。
色々思う所はあれど、蒼汰も半蔵も2人とも頭を下げて謝ってくれた事を見た泉は、小さな溜息をついた後に……2人に向かって一言だけ「顔を上げなさい」と告げた。そして、彼女はもう一度椅子に座ると半蔵、蒼汰ともう1人隣に座っていた勘十郎に向けても言った。
「……とりあえず、護衛にならないと言うのなら……それで良いわ。それは、本人の自由ですもん。いくら、将軍家の者といえど……この国の拳法にも書かれている言論、思想の自由まで曲げさせるつもりはない。……風上蒼汰さん、私は貴方の気持ちが知りたい。貴方の実力なら私の護衛は務まるどころか、今いる家臣たちの中でも……かなり上位の実力者として迎えられる。その辺のアルバイトなんかよりもよっぽどいい報酬だって上げられるはずよ。それでも、やる気はないの?」
泉の真っ直ぐな瞳に一瞬だけ何か思う所もあったのか、蒼汰がはっきり自分の思っている事を言おうとする直前で口が閉じてしまう。彼がもごもごと上と下の口を合わせて重たそうに唇を濡らし終えると……彼は言った。
「……俺には、どうしてもやり遂げなきゃいけない事がある。……です。そのために、この学校でいい成績を収めて……最終的には、この国の……幕府直属の研究機関であり官職の……
「……それなら、わたくしが今回の護衛の任を務めてくれたお礼に……褒美として父上に進言して置く事だってできる!」
泉が言った事は、彼女なりに蒼汰の事を思っての事だった。しかし、これが武士の階級の中でも最下層に生まれ、ほとんど平民として生まれ育った蒼汰と初めから将軍の家に生まれ、この国でも最高位の存在として育つ事も確約された泉との間に生まれた埋められない部分であったのだ。
……蒼汰は、言った。
「……ありがたい言葉だが、それは受け取れない。そんな形で……俺は、八百万奉行に入りたくない。自分の手で……夢は掴みたいんだ。だから、そのために今まで……散々努力してきた。この学校に入れたのも……一つの大きなチャンスだ。それを俺は、逃したくない! 将軍様、だからすまない。……俺は、貴方の頼みを今回ばかりは聞けない。申し訳ない」
蒼汰のはっきりと告げたその言葉に……泉だけでなくその前で今だに膝をついていた半蔵も……無言のままとてもシリアスな顔をして、黙っていた。しかし、少しして沈黙の中で泉は、再び椅子から立ち上がり、教室から出て行こうと歩み始めた。
別れ際に泉は、蒼汰に向かって告げた。
「……分かったわ。今まで色々な形で貴方に介入しようとしてごめんなさい。その……最後にちゃんと貴方の意見を改めて聞く事ができて嬉しかったわ。……そうね。その桜が描かれた印籠……素敵ね」
「……え?」
蒼汰は、まだ彼女にもちゃんと見せた事のないはずの自分の印籠の事について言われて、一瞬疑問を浮かばせたが、しかし……彼が泉に尋ねるよりも先に彼女は、この教室を出て行った。ドアを開けて廊下に出て行く直前、泉は言った。
「……でも、最後に1つだけ言っておきたい事があるの。私は、まだ将軍にはなっていないのよ。それじゃあね。行くわよ……半蔵。それから勘十郎」
彼女の後を追う様に2人も立ち上がり、教室から無言のまま出て行った。最後に1人取り残された蒼汰は、静かな教室の中で……なんだか、何とも言えない様子で立ち尽くしていた。
――でも、これが……俺の望みのはずだ。
しかし、蒼汰の頭の中に浮かんでくるのは、最後に自分の表情見せずにこう言った泉の姿だけだった……。
「……私は、まだ将軍にはなっていないのよ」
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