第五幕 銭形捜査

 侍の朝は、早い。早朝、6時から市ヶ谷侍塾は開放しており、この時間から鍛練の為に学校を訪れる者も少なからずいる。侍の卵たちは皆、自宅か寮で生活しており、朝早く起きて朝食をとると、次にする事は鍛練だ。剣術を鍛える者もいれば、和歌を詠む者も多い。皆、日々鍛錬を積み続ける。そうして、お互いに切磋琢磨しあって成長して行くのが若き侍見習いの彼らの朝の過ごし方なのだ。






 しかし、人間誰しも失敗はしてしまうもの。残念ながら寝過ごして鍛練できない者も中には少なからず存在する。




 この日の風上蒼汰が正しくその一人であった。彼が朝起きると時計の針は既に8時を過ぎていた。それを見て慌てて蒼汰は、身支度をはじめる。彼は、学校からかなり近い所にある四谷と市ヶ谷の間に位置する学生寮で暮らしており、ルームメイトも特にはいない。それもあって彼の眠りを覚ます役割を持っているのは彼の携帯位しかないのだ。蒼汰は朝の準備をこなしながら心の中で焦りを募らせて、密かに愚痴を零す。





 ――昨日、将軍様の話聞いてびっくりして、夜も全然眠れず朝になってしまった! くそっ! 朝は、和歌でも読んで詩力しりょくを鍛えようと思っていたのに!




 ”詩力”というのは、詩術を使うために必要なパワーの事。ゲームで例える所の「MP」のようなものだ。詩力は、日々の鍛錬によって鍛える事ができると一般的には言われている。日々、和歌を詠み……和歌に触れ、八百万の神たちの住む自然に心触れる事で……詩力は鍛えられていく……。





 風上が自分のクラス──七組の教室の傍までやって来た頃には、既にそんな授業を始めている教師の声が聞こえて来ていた。それも当然の事だ。風上の住む寮は、確かに学校から近い。しかし、それでも歩いて15分位はかかる距離だ。いくら急いでも8時過ぎに起きてしまえば……遅刻は確定となる。彼は、勢いよく教室のドアを開けると、中で授業している教師に一言「遅れてすいません」と告げる。すると、教師はそんな風上の姿を見て溜息をついて呆れた様子で「……初日から遅刻するなんて……下級武士のクラスの子なんだからもっと、頑張らないと……武士の世界で遅刻なんかしたら初日でクビになる事だってあるんだぞ……」




 教師の言葉を聞いた風上は、ただ一言「すいません」と述べるしかなかった。そして、すぐに席について途中から授業に参加はしたが、風上の心の中では……少し納得がいかなかった。それは、他でもない自分自身に対して納得がいっていなかったのだ。





 さっき教師が言っていた事は、全て本当の事だ。この侍塾は、武士の家の階級ごとにクラスが分けられている。上級武士のクラス、中級武士のクラス、下級武士のクラス。それぞれ2つずつに分類されている。そして、風上達が今いるこのクラスは、侍達の中でも特に下級武士の家の人間達が集まるクラスで、特に下級の中でも最下層の……百姓上がりや没落した武士よりも更に悲惨な超没落武士の家の人間。更には、出自不明や江戸混乱期以後の四民平等政策をやっている時にどさくさに紛れて武士に なった家の者など……とにかく最底辺の武士達が集まっていた。


 風上の家も先祖は、新選組一番隊隊長沖田総司を持つとはいえ……苗字が違う事や世間一般的に沖田総司は、若いうちに亡くなってしまっていて、子孫はいないと考えられていた事から世間に自分が沖田家の人間です。だなんて言えず、下級の武士として今に至るわけだ。


 とはいえ、そもそも……沖田総司事態が元々、高いくらいにいた武士ではなかったから……実際、沖田家の人間だと世間に分かってもらった所で……蒼汰が上級クラスに上がれるとは、言えないのが現実の辛い所でもあった。




 ――真面目にやると決めていたのに……初日からこれじゃあな……。




 蒼汰は、初日から散々な目にあい、授業中1人窓の外をぼーっと眺めて……桜の花が舞い落ちる様子を見ていた。




 そして、そんなこんなで授業も終わって……休憩時間。蒼汰のメンタルが回復する事はなかった。




 ――俺は、本当にダメだなぁ……。今日から頑張るぞ! って、昨日思っていたはずなのに……結局次の日になっても何もできちゃいない。いきなり、先生怒らして減点くらって……もう散々だ。






 まだ、初日の一限目の授業が終わったばかりだというのに……蒼汰は既に落ち込んでいた。



 だが、実際……教室の窓側の席に座る蒼汰の事で……クラスメイト達は、何やらひそひそと話をしているみたいだった。




 侍塾は、侍達の学び舎。とはいえ、他の学校と大きく違う所は……全員がライバルであるという事。実は、この学校では、毎年何十人かは退学しているのだ。その理由は、授業についていけないとか、家庭の事情なども勿論あるが……一番多いのは、学校側から実力不足。または、落ちこぼれとして侍塾を強制退学されるパターンだ。彼らの事を現代では「浪人」と呼ぶ。



 近世の時代では、主君の元を去って行った者の事を浪人と呼んでいたが、現代では封建的な身分制度が表向きとっぱわれた事もあって、武士達に主君と呼べる者は……幕府を覗いて存在しない。彼らは、大人になればその多くが企業に就職する。そのため、昔のような意味合いでの「浪人」というのは通用しなくなってしまったのだ。



 その代わり、現在では学生の武士の事を指して使われる。それが、学校を強制退学されて、行く当てのなくなった社会の不適合者……”浪人”だ。


 今を生きる若き侍の卵たちは、そんな……自分がいつ何処で実力不足とみなされて、首を斬られるか……怯えながら生活をしている。それもあって、初日から遅刻をかました蒼汰の事をクラスメイト達は、クラスの中で最も浪人にリーチがかかっているはぐれ者としてみなしだしているのだった。





 ――ダメだな。落ち込んでられない。過ぎた事を気にするのは、もうやめよう。一旦、トイレにでも行って心を落ち着けないと……。




 蒼汰は、気持ちを切り替えて……椅子から立ち上がり、トイレに向かった。昨日まであんなに迷っていた学校の校舎も……今日になれば、クラスの位置とトイレの位置くらいは分かるようになっていた。



 彼が、トイレの便器の前に立っていると……その隣に1人の男が現れて、蒼汰の事をジーっと見てきた。





 ――なんだ? この男、さっきから俺の事をジーっと見てくる? 俺に何か用でもあるのか?



 男は、蒼汰とは真逆で髪は短く、その色は茶色い。身長が高く、痩せた塩顔の男で、蒼汰と同じくトイレの便器の前に立って用を足していた。何事か? 気になった蒼汰が、その男に話しかけてみようとする。




 すると、突如蒼汰の事をジーっと見ていた男の方から逆に声をかけられてしまう。




「……今、コイツは、いってぇ何者なんでい? なぁ~んて、思った所じゃないでしょうかい?」




「……!?」



「ははは。……あんさん、意外と分かりやすい性格しておりやすねい? クールぶって、実は顔に全部出るタイプだ」



 男は、蒼汰の事を嘲笑うかのようにクスクスといやらしく微笑みながら話を続けるのだった。そんな男の様子に居心地の悪さと不快感を感じた蒼汰は、少し威嚇するように怖い顔を作って、男に話しかける。




「……何者だ?」




「お~っと! 怪しい者ではござりゃせん! 拙者、親分と同じクラスの者。銭形勘十郎ぜにがた かんじゅうろうと呼ぶ者でございやす!」




「……?」


 風上の脳内でその苗字に違和感を覚えた。いや、というより……聞き覚えのある名だった。勘十郎自身も蒼汰の反応に気付いたのか、すぐに答えた。




「……お~っと、やっぱりおいらの事を知っておいでやすったか。おいら、銭形家の者で……侍の家の人間ではござらん。実力を認められて……この学校に特別入学を認められた者でござんせ!」




 ――やはり、そうか……。銭形……。銭形平次の子孫か。銭形平次といえば、時代劇でも有名な岡っ引き。十手を片手に数々の事件を解決したと言われている。まさか、その子孫が……。





「……どうして、俺の元に来た? 何か用でもあるのか? こんな何処にでもいるような下級のどうしようもない武士に。それとも、浪人候補として……笑いにきた感じか?」




「いやいやぁ~、とぉ~んでもねぇ! 侍でもねぇもんが、親分の事を馬鹿にしに来たりなんかしやせんよ!」



「……では、なぜ?」



「……いやねぇ、ただちょっと……風の噂に聞いた程度ではあるんですがねい。江戸の将軍様の娘さんおるでしょ?」



「……!?」




「……何やら、昨日と将軍殿の娘さんとの間に何かあった……って、話を聞きやしてね……。ぜひ、どんな事を話していたのか? それを聞きたくて……」





 蒼汰は、驚いた。昨日あった事が既にバレている。まさか……いや、しかし……蒼汰が昨日確認した所……人の気配らしきものは近くにはなかったはずだ。あの話を他に聞いた者なんていないはずだ。



 ――しかし、昨日俺が泉殿と会っている事が既にバレている? 




 蒼汰の脳内で……泉が昨日、蒼汰に話していた事が蘇る。





 ――”脅迫状”。



 どうやら、この学校には蒼汰も知らない底知れない何かがあるような気がした。もしそうなら……。




 ――これ以上、他の誰かを巻き込むわけにはいかない。この男にも昨日話していた事については、黙っておいた方が良いか。




「……あぁ、いや……特にこれと言った事は話していない。ただ、たまたま将軍殿にお世話になっただけで……そのついでに、たまたま話をするようになったというだけだ」





 銭形は、蒼汰の言った事を聞いて少しの間、黙ったままでいたが、和服を着直して彼は告げた。




「……分かりやした。いや、それなら別に良いんでやんす。それじゃ」



 銭形は、そう言うと手も洗わずに……トイレからいなくなってしまう。蒼汰は、そんな彼の後姿を見ながら汚いな……なんて思ったりもしながら、自分も和服を着直してトイレから出て行こうとしたのだった。


















 ……蒼汰との話が終わった後、銭形はトイレから出て行くとドアの前で1人でニヤリといやらしく笑い、意味もなくハンカチを取り出して、それで手をふきながら低い小さな声で言った。




「……やぁ~っぱりか。ほんっとうに分かりやすい人でいやがるぜ。あんさん……。あれは……だな」








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