馬鹿みたいだと笑ってくれ

澄田ゆきこ

 長谷部さんは天使みたいな子でした。

 と言うといかにも気持ち悪い男の独白なのだけれど、僕にとって長谷部さんは本当に、高校三年間で唯一の光だった。

 きゃらきゃらした女子のグループの中でも、ひときわきれいな子だった。真っすぐな髪も、はっきりした二重も、スカートから伸びるすんなりした脚も、全部が嘘みたいに美しかった。笑っている彼女のまわりだけ、いつも光度と彩度が高く見えた。彼女はいつも、教室という惑星系の中の真ん中にいる恒星だった。

 空気みたいだった僕には、縁がないどころか、近づくことすら憚られるような人だった。ろくに認識もされていなかったと思う。彼女が作ったクラスTシャツには、僕だけ名前が苗字で書かれていた。僕が仮病を使って休んだ体育祭の日、クラスLINEのアルバムにあがった何枚もの写真の中に、例のクラスTシャツをお腹のあたりで結んで、髪をおだんごにした長谷部さんたちの写真があった。何とか坂の誰に似ている、と誰かが言っていた通り、加工フィルターを通した長谷部さんはますますアイドルじみていた。

 行かなくてよかった。通知の鳴りやまないスマホを握りしめて、心の底からそう思った。運動音痴の僕はクラス対抗のサッカーでもお荷物になるだけだっただろうし。よたよたと滑稽に動く僕のことを、面白おかしく真似していた男子たちの姿が頭に浮かんで、鼻の奥がかっと熱くなった。

 美人だから性格がキツイ、ということもなく、誰からも優しくされて育ったのだろう長谷部さんは、同じように誰にでも優しかった。その優しさに僕が救われたことがあったのも、彼女はきっと覚えていないだろう。僕が人生最低の存在だった一年生の時、名前代わりにドブと呼ばなかったのは長谷部さんだけだった。席替えで僕と隣になってしまっても泣いたりごねたり席を離したりしなかった。美術の人物画で不幸にもペアになってしまって、「ドブの顔とか死んでも描きたくないだろ」「かわいそー」「嫌だったら先生に言って変えてもらおうよ」と囲まれていた時も、それをそっと微笑でやり過ごした後、小さく「ごめんね」と言ってくれた。「絵、上手だね」という甘い声が耳に残っていつまでも離れなかった。

 それでも自分に可能性があるなんて馬鹿な期待はしないようにした。長谷部さんはいつもクラスで一番いけてる部類の男子とつきあっていたし、もとより僕に可能性なんかみじんもなかった。

 僕は学校が嫌いだった。容姿や要領の良さやコミュニケーションのうまさで、嫌が応にも序列が作られる。ずっとてっぺんにいる長谷部さんとは対照的に、僕はずっとどん底にいた。高校一年生の時が一番ひどかった。二年の時には気の合うヤツと少し仲良くなれて、僕の日常は少しばかり平穏に落ち着いた。だけど三年生ではクラスが離れてまたひとりぼっちになった。休み時間を狸寝入りでやり過ごす日々。長谷部さんが同じ教室に居たことだけが本当に救いだった。

 まともに目を向けるのすら申し訳なかった僕は、長谷部さんの代わりに、彼女に似ている何とか坂の誰かの写真をフォルダに入れて、お守り代わりにしていた。我ながら本当に気持ち悪い。救いようがない。だけど僕はそうすることで、気持ち悪くもなんとか呼吸をしていた。


 卒業式の日も、儚くきれいな思い出なんかひとつもないまま終わった。担任に名前を呼ばれた時、上手く「はい」と言えなかったことを思い出して、今すぐ死にたい気持ちでいっぱいだった。誰の僕のことなんか気にしていないと思うのに、僕のミスをいつまでも笑われるような気がした。被害妄想ばかり得意になっていく。

 長谷部さんの周りにはたくさんの人がいる。胸の造花とリボンを躍らせながら、写真をたくさん撮っている。僕の天使だった人。女神だった人。長谷部さんは東京の私大の文学部に行くらしい。東京でも長谷部さんはたくさん友達ができるのだろう。新歓で出会ったちょっといけてる先輩の男とつきあったりするのだろう。長谷部さんはたぶん、自分が一年生のあの日に「上手だね」と言ったことで、僕がイラストの専門学校に行こうとしていることも知らないのだろう。

 不意に彼女が輪から外れて一人になった。何を思ったのか、僕は彼女に声をかけてしまった。三回目でやっと彼女は振り向いた。


「……なんか勘違いさせちゃってたならごめんね?」

 僕の言葉を聞き届けた後、彼女はこの世で一番残酷な言葉を吐いて、ひらりと踵を返した。友達の輪の中に戻っていく。僕のことを話しているのだろう。彼女の友達がちらりと投げた視線は、犯罪者でも見るような冷たさを孕んでいた。口々に囁き合う声がする。困ったように笑いながら僕のことを話す長谷部さんは、それでもやっぱり嘘みたいにきれいだった。

 僕は人ごみから逃れるように校門を出た。春の西日が目を焼いて痛かった。僕が勝手に傷つきに行っただけなのに、世界はいつだって残酷なだけなのに、感傷が胸を満たして涙が溢れ出た。僕は泣きながらふらふらと歩く。学ランの中に涙が流れ込んでくる。きもっ、と女の子のグループの一人が吐き捨てて通り過ぎていく。スカートがひらひらと青春そのものみたいに揺れる。

 自分でも馬鹿みたいだと思うけど、だけど僕は、馬鹿みたいにしか生きられないんだよなと思った。その日僕は、何とか坂の誰かの写真から待ち受けを変えた。

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