03 朝の中庭

 目が覚めると、何故か長椅子の背もたれの頭のすぐ横に小さな巣箱が置かれていた。

 パンを仕込む必要がないのと、昨夜の夜が更けても語り合っていた『男同士の秘密の話』のおかげか、小さなスケッチブックを抱え込んだまま、テオドールが真隣のソファの上で丸くなってぐっすりと眠り込んでいる。その隣で膝の上に竪琴を載せたまま、ベルモンテが片膝を立てて腰を降ろし静かに寝息を立てている横で、床の上で葡萄酒の瓶を握りしめたまま、ファルコが大の字になっている。

 昔から、酔うと何故か床の上で寝る男だった。あの頃から変わっていないらしい。

『また、旅に出たい?』

 巣箱の中から、聞き慣れた囁き声が聞こえる。

「………もう一度行きたい場所はいくつもあるが、今の私は、旅人を歓待する側でな。ここにいる友らの『恋路』も気になるゆえに」

『ご主人様や入江姫達の?』

「羨ましいことだ」

 巣箱から顔を出したロッテが、いつもの森の館のように、差し出された人差し指の上に静かに舞い降りる。指先だけが、夢のように暖かい。

 再び目を閉じて、ミーンフィールド卿は呟く。

「………恋とは、心の中で、一番佳い葡萄酒を熟成させる様なものだ。いつの日か、それを分かち合う相手と杯を交わす日が来るのを夢見る者達を見ていると、少々の寂しさも募るな。………私はこういった友らとの日々も好きだが、少しばかり、かつての自分のように、ただただ遠くへ行きたくなる日もある」

『そうね。ちょっとだけ、わかるわ』

「良い朝だ」

 赤くて青い朝焼けが窓を静かに彩る。珍しく、部屋の鳥達もまだ静かに眠っている。卿が小鳥に、静かに囁きかける。

「………城の中庭へ。まだ皆しばらくは起きてこないだろう」

『案内するわ』

 人間の様に夜を共に過ごせなくても、こうして早い朝を共に過ごす特権は、小鳥である自分だけのものである。

「そうだな。今の私には、遠くの国でなくとも、近くに庭がひとつあればいい」

 ロッテを何時ものように肩の上に載せ、静かに部屋を滑るように出る。朝早くまだ誰もが寝静まっている城の階段を静かに降りて、中庭への扉を開ける。

 風もないのに、ざわり、ふわり、と木々や花々達が揺らめき、朝露と緑の香りが立ちのぼる。白い小鳥が肩から舞い上がった。

『……私、遠い国よりも、いつもの館や、こういう庭が好きよ。けれど私は人間のレディじゃないから、あなたが遠くへ旅をするなら、連れていってって欲しいって……言ってもいいのかしら。私、小さくて軽いもの。そんなに、重荷にならないでしょ?』

 青と赤の朝焼けに照らされる種々様々な緑色の入り乱れる早朝の中庭に、ロッテの白い羽根が小さな宝石のように白く舞う。

『いっぱい言いたいことがあるけど、またいつかでいいわ。だって、こんなに素敵な朝なんですもの。野暮なことは言いっこなしのほうがいいわ』

 朝露に濡れた草花の香りが漂う小さな中庭に、ミーンフィールド卿は静かに足を踏み入れる。大柄の男が静かに歩く度に、風もないのに木々や花々が静かに揺れるpた。

『皆、なんて挨拶しているの?』

「そうだな……『お久しぶりでございます、お坊ちゃま。なんとご立派になられたことか』『かの先代様にはよくお世話になりまして』と。……ここは、母がよく薬草を育てていた場所だ。もう何十年も昔だが」

 ロッテが目を丸くする。

『まあ、羨ましいわ。私もゴードンさんが「お坊ちゃま」だった頃を知りたいわ。あなた達とも、いっぱいお話できたらいいのに』

 それを聞いたのか、庭の緑達が愉快そうに揺れる。卿が歩きながら、敷石の脇に視線を落として呟いた。

「まだ薬草がいくつか残っているようだ」

『あまり人のこない中庭だけど、昔はあなたのお母様の薬草園だったってことかしら』

「その通り。もう一度、手入れをせねばな。………木々とは不思議だ。もうこんな歳になった私を『お坊ちゃま』と呼ぶ。母に連れられて初めてこの庭に来てからもう何十年も経つのに」

 ロッテが肩の上からそんな卿の顔をを見つめ、しばらく黙った後に、言った。

『私、若い時のあなたも、「お坊ちゃま」だった頃のあなたも見てみたいけど、これからのあなたを、まだまだもっと、もっと……近くで、見ていたいわ。きっと、もっと、素敵になるに違いないんだから』

 これからの自分。近習を持ち、人にものを教える立場にもなり、迷う旅人に親切な言葉や歓待を投げかける側になり、一通りの責任なども背負うことになった。

 それでもなお、自分は自分なのだ。まだ、自分の歩む道に在る未知の何かを夢見てもいいのだ。

 幼い頃の自分を知る木々の枝々が、そんな気持ちを肯定する様に朝の風に揺れる。薬草の懐かしい香りがかすかに残る、懐かしい場所。

 ふと、その懐かしい香りとともに、薄い朝靄のように心の一部を覆っていた何かが、音もなく晴れていった気がして、ミーンフィールド卿は空へと視線を投げる。

「そうか」

 中庭の木々の隙間から、青く光り始めた朝の空が垣間見える。

「成程。ありがとう、ロッテ。礼を言わねばならんな。良い逢瀬とはこういうものか」

 珍しく率直に言う卿の肩の上で、白い小鳥が真っ赤になる。

『そ、そ、そんな、急に言われると、どうしましょう、照れちゃうわ。えっと、色んな言葉を、せっかく用意しておいたのに』

「おや、用意とはどの様な言葉をですかな、レディ?」

『ああ、もう、そういう時だけそういう言い方ってずるいわ! これだから人間の殿方って油断ならないのよ! そんなことより、そろそろお部屋に戻らないと、皆が起き出してくる頃よ』

「そうだった。戻るとしよう」

 踵を返すその肩の上で、思わず真っ赤になった顔を羽の間に埋めるロッテを、掌で撫でてやりながら、卿は再び階段を静かに昇っていった。

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