03 緑の画帳
卿の私室、以前ベルモンテと入江姫が泊まった客室の他にはもうひとつ、二階には空き部屋があった。机と椅子と寝台しかないが、綺麗に整えられている。
「好きに使って構わない。見たところ、随分と荷物が少ないが、本当に最小限だな。……君の様な年頃にしては、珍しい気がするが」
「えっと、それは……」
つい先日、思い切って荷物をまとめ、身分を隠して刺繍職人の元へ弟子入りしようとしたところを、父親に取り押さえられてしまったという。荷物はその時にまとめたものをそのまま持ってきていた。
「なかなかの行動力だな。見どころがある」
真顔で言うミーンフィールド卿を前に、どう返事を返すべきなのかわからず、落ち着かない風情でテオドールは椅子に座り直す。
「まあ祖父君には世話になった身だ。つまり君をいつかは立派な騎士に育てねばならん」
思わず背筋を伸ばそうとし、それでも自信のなさゆえに肩を落としながら、テオドールが答える。
「……せめて、いつかは三十席以内にって」
カールベルク王国の騎士隊でも『三十席』までは国王の謁見室に入ることができる、近衛騎士の役割が与えられていた。
「懐かしいな。私の亡き父は十九席だった。穏やかな人柄だったそうだが、先代国王を暗殺者から庇って殉職した。私の生まれる直前だったと聞いている」
「………」
「ゆえに、剣の修行は厳しくなるだろう。三十席以内を目指すなら、尚更のこと。近衛騎士として恥ずかしくない礼節もまた教えねばならん」
「は、はい……」
「だが一階の書庫に母の裁縫箱がある。私は流石に刺繍は出来ないが、一人で館に住まうと修繕するものも多くてな。ちょうどいい。貸しておこう。そう、好きに使っていい。ただ、母は刺繍を嗜まなかったゆえ、きっと君には役不足だろうが」
カーテンを開けると、西日が差し込む。
「刺繍するにはやや眩しい部屋かもしれないが、天窓もある」
「……本当に、いいんですか」
ミーンフィールド卿が、意味深に口鬚に手を当てて片目を閉じ、少し笑ってから答える。
「最終的に立派な騎士に育ってくれれば良い。過程を指定されているわけではないのでな。……世俗を離れた場所での修行、つまり人目など一切気にする必要はない、ということだ。違うかね?」
こういう類の人間を、祖父は何と呼んでいただろうか。テオドールは思わず数秒考え込んで後に答えを出す。
(………そうだ、『食わせ者』っていうんだっけ)
初印象ほど恐ろしいわけでもない。今までに会ったことがあるどんな大人とも違う独特の雰囲気は、この壮年の騎士が、緑と語らう魔法使いも兼ねているからなのだろうか。
騎士でありながら魔法使いでもある男。ふとテオドールは考える。
『騎士でありながら』、別のことを勤めることができる道があるのなら、自分は針と糸を捨てずに、それでいて騎士として生きていけるのではないか。
「………騎士で、魔法使いなんですか」
思わずもう一度問い返すテオドールに、
「騎士だった父が殉職し、私の養育には国からの補佐が出た。故に、亡き父や、女手ひとつで私を育ててくれた魔法使いの母、そんな我が家を救ってくれたこの国の名に恥じぬ立派な騎士になるべく修行をしていたが、私を育てた母同様、私も花や緑と語り合うのがやはり好きだった。最終的にどちらを取るかで悩んだこともあったが、私の親友の魔法使いがこう言ってな」
少し視線を遠くに投げて、心に書き留めた一字一句を思い起こすように、それでいて少し愉しげに、この壮年の騎士が言う。
「『どっちもやれるなら、どっちもやりゃあいいだけのことじゃねえか。うちの魔法使い共がゴタゴタぬかすようだったら、この俺が何とかしてやる』とな。第五席昇進がかかった試合の直前だったな……」
この男の親友というのはどうやらすこぶる痛快無比な人間らしい。一体、いかなる男なのだろう。
「それで、『森の騎士にして緑の魔法使い』その時からそう名乗ることになったというわけだ。カールベルク城の騎士と魔法使いの名簿には、どちらにも私の名が載っている。……易しい道ではなかったが、騎士でありながら魔法使いでもあることが、今の私を私たらしめている」
ランプに灯りを灯しながら、ミーンフィールド卿は静かに言った。
「母は王宮で薬師を勤める『花の魔法使い』だった」
階段を降りながら、ミーンフィールド卿は呟く。
「花や草の命は長くはないが、人の命同様、針と糸で留められるものもある。見せておきたいものがある」
そういえば父は外科医である。針や糸を使うのは自分と同じなのか、とテオドールは改めて思わず息を吐く。臆病者の自分には、傷口を縫い合わせることはできなさそうだ。やはり、家の跡取りの道は厳しいのだろうか。
何となくひとり落ち込むテオドールを前に、ミーンフィールド卿は夜の館の廊下の突き当たりにある小さな書庫の鍵を開けた。
「……木々や花々と語り合い友とする、『花の魔法使い』。そんな母が遺した画帳だ。騎士だった父とふたりで旅をしていた頃から、母はそれらの『友』の姿を描いていた。ここには大陸中を旅して廻っていた時に出逢った花々の姿が描き収められている」
緑色の布で装丁された数々の画帳。一冊を手渡されたテオドールが、それを開いて目を見開く。
「……すごい」
「貴婦人の役割をひとつ横取りすることになるが、代わりに貴婦人の袖を美しく彩ってやればいいだけのこと。私のよく知る『レディ』なら、刺繍が得意な騎士がいるのはとても素敵なことだ、と言うだろう」
「『レディ』?」
色事には縁のなさそうに見えるが、やはりそこは『騎士』なのだろう。館の何処にも女性の影はなかったが、
「君のことは既に知っているがね」
そう言われてテオドールは目を丸くする。こういう話題の時はどう反応するべきなのだろうか。テオドールは緑の画帳に慌てて視線を戻す。
卿が掲げたランプに照らされて、色とりどりの花々の絵が、丸で香りもそのままに、豊かに、そしてかつ細密に描き込まれている画帳。花の持つ特徴もまた、絵の脇にペンで細やかに書き記されている。
「かつて南の宮廷の画家に、細密画を教わったと言っていたな。常春の国なだけあって、それはそれは美しい植物園があったらしい。旅の道中の道端で出会った花々も記されている。図案にしたければ貸そう」
ミーンフィールド卿が、年若い少年の輝く瞳を見て、静かに微笑む。
「勿論、毎朝の稽古が終わったら、という条件付きでな」
テオドールがぱっと背筋を伸ばす。
「君は早起きは得意かね?」
「明日から得意になります」
「よろしい。針と糸を調達せねばな。刺繍は教えられないが、教本くらいは取り寄せられるだろう。男児たるもの親には言えぬ秘密のひとつやふたつ持っていてもよかろう。家に伝わることもない。事後承諾だ」
「事後承諾?」
「立派に育った騎士が、美しい刺繍を己の袖に施す日が来るまでの話だ。……さあ、次は厨房を案内しよう。食事は毎朝自分たちで用意するが、君は育ち盛りだ。ここは野菜から果実、蜂蜜まで何でも揃うが、君は育ち盛りだ。肉の量が足りなくなるだろう。鳥達は全てロッテの友ゆえに、ここで出るのは鳥肉以外になるがね。その手はずも整えておかねばならない。庭の稽古場も二人では狭かろう」
思いのほか寛容かつ大胆不敵、そして細やかな配慮も得意らしいこの穏やかな騎士が、書庫の扉を締めて呟いた。
そうだ、頑張らねば。どうやらこの館には、自分が頑張っていけるだけの何かがたくさん詰まっている。ちっとも得意ではないことも、得意なことも、もしかしたらこれから得意になるかもしれないなにかも。大きな瞳を輝かせる少年に、ミーンフィールド卿は言った。
「明日から忙しくなるな。とにかく今日は、ゆっくり休むことだ」
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