02 一本のリボン

「入江姫は館から出ることが少なかったらしい。島についての情報はベルモンテの方が詳しいくらいだが、彼もまた異邦人だ」

 包みの袋を開け、指先で種を丁寧に仕分けていく。ゴードン・カントス・ミーンフィールド卿。国境近くの小さな森に住まう壮年の騎士の、大きな口髭で少し隠れた口元がわずかに緩む。

「きちんと種を一晩水に浸してくれたらしい。これで発芽率が良くなるだろう。……我が母の教育を忘れてはいなかった様で、大いに結構」

『母?』

「ファルコに魔法の何たるかを教え込んだ師匠は私の亡き母でな」

 部屋の机の上に、小さな額が置かれている。緑色のローブに灰色の瞳の女性と、その隣に、どことなくこのミーンフィールド卿に面差しの似た、大柄で真面目そうな男が立っている肖像画。ひらり、とロッテがその前に降り立って、言った。

『お父様とお母様ね』

「父は私が生まれる直前に亡くなったが、母はこの秋で三周忌だ。『やんちゃな雛鳥』が女王陛下付の魔法使いになるのを見せてやりたかったがな……」

『ご主人様がやんちゃな雛鳥だった時代、もっと知りたいわ。私が聞いても教えてくれないんですもの。ゴードンさんと旅をしてた時代の話、いっぱい教えて欲しいものね』

 生真面目な騎士が、人差し指を口元に当てて微かに微笑む。

「何卒ご容赦を。レディに聞かせられるような話は少ないのでな」

 椅子を引いて腰を降ろし、口元に当てた人差し指を伸ばしてロッテを招き寄せる。

「……下町の不良少年がまさか魔法使いだとは誰も思うまい。母も私も驚愕したものだ。そしてエレーヌ、そう、今の女王陛下もまだ、ご存命だった先代王妃の膝の上にいた頃だ。私達が旅をし、国に帰ってくる度に育っていく夏の若木のように瑞々しく美しい姫君が、いつかは『主君』になるからそのつもりでいろ、と一応は言っておいたはずなんだがな」

 そして、ちょっとだけ意味深に、片方の眉を上げてロッテに問うた。

「我が麗しき主君はご健勝かね?」

『どこぞのジメジメした魔法使いが毎日心で涙するくらいにお綺麗よ!』

「結構なことだ。お父君、そう、先代陛下が草葉の陰で腹を抱えて笑っているのが目に浮かぶな」

 種の生育用の小さな容器に赤い土を詰めながら、卿が静かに問いかける。

「ベルモンテと入江姫はどうしているかね」

『女王陛下直々のご意向でお城の中でも広いお部屋を宛てがわれたわ。安全に暮らすことが出来そうね。そういえば、この館に入れるって言ってた近習の話はどうなったの?』

 歌うように陽気なおしゃべりが、何とも心地よい。

「騎士団に掛け合ってみたが、第二席のティーゼルノット卿が、ご令孫のひとりをここで修行させたい、と言ってきた」

 机の上に手紙が乗っている。

『副騎士団長様ね』

「私とファルコは昔からしょっちゅう叱られていたがな。ご健勝で何よりだ」

 カールベルク騎士団の第一席と第二席は今では事実上の終身名誉職になっていた。亡き先代国王の片腕を勤めていた現騎士団長と副騎士団長である。

「私もとうとう、上司の孫の面倒を押し付けられる歳になったということだ」

『お名前は?』

「テオドール=パーシファー・ティーゼルノット。今年で十五になるそうだ」

 手紙を手に取って、ミーンフィールド卿が言った。

「……それで、この手紙だが、何故かこういうものが同封されていてな」

 封筒の中に、一本のリボンが折り畳まれていた。リボンには、少し色褪せた糸で、一輪の花が『途中まで』刺繍されている。

『あら、すごく素敵ね! それにどこか新しい雰囲気の柄だわ。どこかのお嬢様の手習いかしら』

「手習いか」

 リボンを持つミーンフィールド卿の手元にやってきて、ロッテが首を傾げて言った。

『けれど糸が古いわ。練習用じゃないかしら。でもたしかに不思議ね。お見合いの肖像画をどさくさに紛れて送ってくるならわかるけど……』



「困ったなあ」

 騎士になるべく生まれ育った少年が、森の中の館の入口で、赤い髪の毛をくしゃくしゃと掻いてもう一度呟く。

「ここでいいのかな……」

 入口脇に橘の木が植えられている。最近植えられたばかりらしく、周囲の土がまだ少し新しい。蜜柑のような良い香りがほんの少し漂う。眩しい緑に映える白い花が愛らしい。花と葉を組み合わせて、夏用のドレスの図案にするのも良さそうだ。騎士のマントの襟などにさりげなく縫い込んでもお洒落かもしれない。

 花を覗き込もうと腰を屈めると、腰から下げていた剣ががちゃりと音を立てて鳴った。丸で警告音の様だ。

 テオドール・パーシファー・ティーゼルノット。高名な騎士である祖父の跡継ぎとして育てられた少年が、びくりと思わず背筋を伸ばす。

 剣は嫌いではない。ただし、得意でもない。背が低く身体も細い自分は、剣を振り回すよりはむしろ、剣に振り回されてばかりいた。

 もう十五歳になるというのに、屈強な肉体にも、体力にも恵まれていない。病気がちな母に似たのかもしれない。けれど母や、医者の父、そして先代国王の片腕とも称された祖父も、そんな自分に期待してくれていたらしい。

(それでも、僕は……)

 父と祖父に連れられて二年前に出席した戴冠式で、若き女王陛下の美しい刺繍で彩られたドレスを偶然間近で見て以来、彼は針と糸が織りなす繊細で美しい世界に、すっかり心を奪われてしまったのである。

 祖母の使っていた裁縫箱を見つけ出し、病気がちで不在な母親のクローゼットに忍び込んで、奥の方から古びたハンカチ、リボンを引っ張り出す。父や祖父の目を盗んでこっそり出かけた骨董市で買った古い教本や、糸、サンプラーと呼ばれる古の貴婦人達の手遊びや見本が糸で織り込まれた教習布を片手に、見様見真似で布に針を刺していく。そんな秘密めいた手仕事。

 小さな十字を組み合わせた幾何学文様からはじまった、手元で生み出される色とりどりの世界。今では簡単なイニシャルや花の模様も縫い込めるようになった。

 それなのに、また剣の世界に逆戻りである。やはり、騎士の家に生まれた自分に、刺繍の道は開かれてはいなかったのだろうか。

「貴殿が、ティーゼルノット卿のご令孫であろうか」

 静かな声が響く。館の中からやってきたのは、肩に何故か白い小鳥を載せた大柄の騎士だった。大きな傷が顔の縦横に走り、顎髭を蓄えた壮年の男は、白い小鳥さえ連れていなかったら相当な威圧感がある。だがしかし、それよりも男はなぜか、一本の見覚えがあるリボンを手にしていた。

「あ、そ、そのリボンは……」

 赤くなったり青くなったりしている赤色の髪に大きな瞳の、少し背の低い少年に、ロッテが聞く。

『誰かから貰った大事なものかしら? それとも……』

 いきなり喋った白い小鳥を見て、目を見開きながら反射的に答える。

「ぼ、僕のです」

「もしや、君が縫ったのか」

「………はい。あ、でも、その………男なのに、こういうのが好きなの、おかしい……ですよね」

 情けなさと恥ずかしさ、そして、それとは少し違う、悔しさにもよく似た、まだよく知らない不可思議な感情が、突如として堰心を切ったように溢れ出す。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。これから世話になる初対面の相手を前に、何と情けなく、恥ずかしいことだろう。とんでもない軟弱者と思われたに違いない。それでも無理やり大きく息を吸い、少年は言った。

「………あの、今のは、見なかったことに、してください。本日から、近習としてお仕えいたします、テオドール・パーシファー・ティーゼルノットと申します」

「近習を世話することになるのは私とて初めてだ。祖父君から名前は聞いているだろうが、私の名前はゴードン・カントス・ミーンフィールド」

 ミーンフィールド卿が微笑んだ。そして、

「着いてきなさい」

 ぽろぽろと溢れる涙を服の袖で無理やり拭いて、ぎゅっと矜持を保つように背筋を必要以上に伸ばし直した少年を心配そうに見やる小鳥を肩に乗せたまま、卿は何も言わずにこのテオドールを静かに館へと促した。



 いつもの静かな二階の、いつもと何も変わらない私室の窓際のゼラニウムの植木鉢に、ミーンフィールド卿はリボンを見せて問いかけた。

「君らは、どう思うかね?」

 風もないのに、ほんの僅かに花が揺れるのを見て、テオドールがぎょっとして真っ赤になった目を丸くする。

「………『へえ、この坊やがねえ。うむ、悪くないぞ。この花びらの形! 若くて初々しい俺好みのべっぴんさんだ。もっと明るい色だといいけど、こいつぁずいぶんと糸が古いな。おい親父、もっといいやつ買ってやれよ。お前のお弟子さんなんだろ?』だそうだ」

 涙がひっこみそうな顔で、まじまじと目の前の騎士を凝視する。

「あまり知られていないが、私は魔法使いでもある。こうして、木や花と語らう、それだけのささやかな力だが」

 背の低い少年に合わせるように、少し身体を屈めて言った。

「丸で深窓のご令嬢のような愛らしい魔法だ、と揶揄されたこともあった。花と語らうのが、恥ずかしかった時期もある。君くらいの歳の頃だった」

 部屋に置かれていたのだろうハンカチが、大きく、そして細やかな剣傷の多い手から差し出される。

「騎士が美しい女を愛すれば美徳なら、その手で美しい花を描くのもまた美徳たりえると私は思う」

 その落ち着いた声が、たった先程出会ったばかりだというのに妙に心に響く。

「………けれど、父が、許してくれなくて。おじいさまみたいな立派な騎士になれって。父は事故で片足を無くして、騎士になれなかったから、僕にはとても期待してるみたいで………」

「成る程」

「『刺繍は騎士がすることではない』って。それで、おじいさまに『一番厳しい騎士のところに修行に出してほしい。できれば余計な世俗の誘惑などない場所で』って頼んで………」

 肩の上のロッテが吹き出す。

『ゴードンさんったら、めったにお城に帰らないせいであらぬ誤解が生まれてるじゃないの!』

「いつものことだ」

 ミーンフィールド卿も涼しい顔で返事を返す。

『そろそろお城に顔を出しておいた方が良いんじゃないかしら』

「噂話で私に角や牙が生える前にな。積もる話もある。ファルコに連絡しておいてくれないか」

『部屋をきちんと片付けさせておくわ!』

 この騎士とは気の置けない仲らしい、この愛らしい小さな小鳥が、ひらりと窓から飛び去っていく。

 愛用の祖母の裁縫箱を持ち出すことも許されず、顔に大きな傷があり、人目を避けるように暮らしていると噂の『たいそうおっかない』『森の騎士』の元へ送られることになってしまったはずの少年が、どうも巷での噂や自分の想像とはまるで異なる、独特の静謐さを湛えているようにも見えるこの騎士の背中を、もう一度まじまじと見やる。

「……人目も、世俗も、好んで避けているわけではないが、年若い女王陛下の城にこんな人相の悪い騎士が大きく構えていても宜しくなかろう。それに私は森が好きでな。ここが私の私室だ。君の部屋も用意してある。こちらだ」

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