04 舟と港
話の終わりを告げるように人さし指で一音だけ爪弾いた琴の音色が、静かに部屋に響く。
「東の帝国か」
「突然のことで、何も出来なかった」
「そうだろう」
二人のコップに、ミーンフィールド卿は静かに葡萄酒を注ぐ。
「昔、一度だけ相まみえたことがある。小さな島なら、戦う間も、守る間も与えられなかったことだろう」
入江姫が、コップの中の慣れない香りに目を瞬かせる。
「これは?」
「お酒だよ。葡萄で出来ているんだ」
「島では酒を米や芋から作っておったな。これが葡萄とは、不思議なものよ。まるで血のようじゃ」
ゆっくりと口をつけて、ぽつりという。
「ベルモンテ、そなたがおらねば、どうなっていたかもわからぬ。我は館から出ることも滅多になかった。島の女とは、そういうものゆえ」
そして、自分を心配そうに見上げるロッテを撫でる。
「しかし、ここの食事は美味い。生き返る気持ちじゃ。魂を、繋ぎ止めておいてよかった」
『魂を、繋ぎ止める?』
入江姫が緩やかに微笑み、小さな小鳥にだけ囁く。
「我の知っていた全てが、空の虹よりも遠い地へと去ってしまった。この男以外は、全て。………けれど、この音色を聴くと、我は生きていたくなる。琴がなければ、我もまた、後を追おうかなどと考えていたろうよ」
そう言いながら、己の吟遊詩人を、コップ越しに静かに見つめる。嵐のように突如襲い掛かってきた不幸を生き延び、しかしそれ故に、幸せになるのを躊躇う瞳だ。
『………私、あなた達に会えて嬉しいわ。私をお姫様って呼んでくれたの、あなた達がはじめてだもの………』
ロッテがそっと、そんな姫君の、葡萄酒で少し暖かくなった掌に頬をすり寄せた。
食事でもてなされ、葡萄酒を口にし、身体を休めるうちにうつらうつらと寝入ってしまった姫君を寝台に運び、ベルモンテは傍らの長椅子に深々と腰掛ける。
一見仲睦まじい恋人同士に見えるが、一度も『触れてはいない』のだろう。吟遊詩人という生業には珍しいほどに律儀な青年だ。遠い島の姫君を大事に、大事に守りながら、命からがら、ようやくこの森まで辿り着いたらしい。
「君のご主人に感謝しないと」
恋、と呼ぶには少しばかり熱く、それよりもなお深く優しい視線で、久々に暖かい寝台で静かに眠る姫君を見つめながら島の竪琴を手入れしている青年の隣で、ロッテは言う。
『ご主人ってわけじゃないの。私のご主人様はお城にいて、彼はその友達。もちろん、私にとってもよ。頼もしいでしょ?』
ドアが静かに開き、当の卿が静かに入ってきた。姫の寝台から離れた入口脇の小さなテーブルに、手にしていた飲み物を静かに並べる。
「飲み物を用意した。この森自慢の蜂蜜も入っている」
ベルモンテが微笑む。暖かいミルクに蜂蜜が溶かし込まれている。喉を気遣ってくれたのだろう。
「あなた方は本当に、素敵な方達だ。飲み物を頂いて、少し眠ることにするよ」
枕元の鉢植えから微かに良い香りがする。人生の大半を旅に費やし、色んな国を経巡ってきたが、こんなにも親切が身に沁みたことはない。良い香りのせいか、今までに見たこともない柔らかな表情で眠っている入江姫を再び見つめて、
「何てお礼を言えばいいのかわからない。今は、何も持っていないけれど………」
そういう吟遊詩人に、騎士は言う。
「気にすることはない。人を歓待するのは嫌いではないのでな。そこの花も、美しい姫君を間近で見て、心なしかいつもより張り切っている様だ」
「花が?」
「私は昔から、木々や花と語り合う力を持っている。この顔のせいで、信じてはもらえないがね。………だが、木々や花と語り合えるおかげで、ここにはどこよりも味わい深い日々が在る。花達に頼めば、蜂達を介してこうして美味しい蜂蜜も得られる。苺の育つ場所もわかる」
味わい深い苺、驚くほど芳醇な蜂蜜や葡萄酒、そして良い香りの鉢植え。緑をよく知る者の歓待はいかなる絢爛豪華な王宮にも勝るらしい。ベルモンテが言った。
「魔法使いが住まう国、というのは本当だったんだね」
「私の母は魔法使いだった」
「羨ましいなあ。僕も、遠い国の騎士や魔法使いの物語に憧れて、吟遊詩人になったんだ。………ああ、でももしも、本当に剣や魔法が使えていたら、あの時救えたものも、あったのかな」
吟遊詩人の青い目に影が落ちる。
「………入江姫、そう、この世で一番美しい港に、僕はただただ停泊して、いつかは去っていくさだめの舟だったと思う。流浪の吟遊詩人だからね。それも、あんなことがなければ、の話だけれど」
長い間押し殺していた不安を吐露するように、ベルモンテがぽつり、ぽつりと呟く。
「………僕はただの吟遊詩人で、本当は何も持っていない寄る辺ない舟だ。僕があなたみたいに、頼りがいのある騎士だったら、もっと良かったのにな………」
ミーンフィールド卿が、静かに微笑んで言葉を返す。
「この世には、剣や魔法だけでは乗り越えられない苦難も、知恵と勇気を持つ詩人にしか救えないものもある」
部屋に灯したランプの灯りが、静かに微笑む男の横顔の大きな十字傷を照らす。
「そこで眠る姫君が、その証だろう」
眠っているはずの入江姫の黒い睫毛が、ほんの微かに揺れた。
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