03 クチナシの花

 美しい館が燃えている。愕然とそれを眺め、吟遊詩人は我に返る。

(あの姫君はご無事だろうか)

 海の彼方からこの島に渡ってきて三年が経っていた。島の主に気に入られ、館の離れに滞在することを許されていた流浪の吟遊詩人、ベルモンテ・ド・フォンテーヌ、太陽のような金髪と陽気な歌声を持つ青年が、この島独自の造りの長い廊下を駆け出した。

 この島で唯一自分だけが、夜の間はこの島独特のシルエットの衣装を着ずに暮らしていた。背の高く腰の位置が高い彼の体型にちょうど合うサイズの夜着がなかった為である。

 攻め寄せてきた東の帝国の兵と夜目では区別が付きにくいらしく、すれ違っても一向に咎められない。それも、館を彩る金銀珊瑚の宝飾品が、兵士達から理性を奪った後では尚更のことだった。

(東の帝国の夜襲………)

 海の夜霧に紛れて近づいてきたらしい。すれ違う男達から潮の香りがする。腰からは帝国独自の幅の広い半月刀が下げられている。じゃらり、というこれもまた帝国の兵士達独特の鎖で出来た甲冑の音、潮の香りと血の香りが、辺り一面に漂う煙に入り混じる。散乱する矢や刀、そして剣、倒れている見知った人々の体をなんとか乗り越え、もう何度も何度も通った部屋へと辿り着く。

 御簾越しにしか会ったことがない姫君。島の外の話をよく所望し、その代わりに島に伝わる様々な珍しい物語を聞かせてくれる、凛とした声と美しい香りの特徴的な、この館の聡明な一人娘でもある姫君の名は『入江姫』といった。

 その姫君こそが、この島に在るどんなものよりも美しい、ということを、彼は知っていた。そして、美しい略奪品がこういう場面においてどう扱われるかということも。

 祈る様な気持ちで、ベルモンテは部屋へと飛び込んだ。



 一人の女が、長い裾の衣を複数の男達に掴まれ、既に肩まで顕わになっている。長く艷やかな髪、助けを求めるように虚空を掴む白く細い指。美しい調度品が部屋中に散乱し、御簾も打ち捨てられている。

 心臓が掴み上げられる様な感覚と共に、全身から怒りが噴き出しかけるが、辛うじて奇跡的に保った一欠片の理性がそれに取って代わる。喉から咄嗟に声が出た。

「その姫君は我らが王への献上品である!」

 今まさに姫達に襲いかかろうとしていた男達が凍りついたように動きを止めて、振り返る。

 東の国の帝王。彼らの頂く唯一の頭領であり、彼らがこの世で唯一恐れる者。流浪の吟遊詩人である自分もまた、東の国の市場などへ行けば必ず、この王を讃える歌などを所望された、それほどに強く名高い君主であるという。一か八かの覚悟を決めるよりも先に、丸で歌を歌うように言葉が湧き出てくる。

「故に傷ひとつ付けてはならぬ。皆の者、控えよ、王への供物を掠奪しようとは不敬であるぞ!」

 流浪の旅の最中に見聞きした東の民達の使う言葉や抑揚、言い回しをそっくり真似ながら、ベルモンテは、手足の震えを堪え、朗々と声を張り上げる。

「それがしは王より伝令を仰せつかった者である。さあ、姫よこちらへ。けして手荒な真似はせぬゆえ」

 入江姫が目を見開く。御簾越しでしか語り合ったことのない美しい姫君。互いの顔をこうも間近で見るのは、これがはじめてのはずである。それでも、自分が毎日愉しく語り合っていた詩人であることにこの姫は気付くだろうか。

 着衣を乱されてなお気丈にこちらを睨みつけているが、長い髪と、肩が微かに震えている。静かになった部屋で、ベルモンテは堂々と、賓客を前にする使者のように、胸に手を当てながら跪いた。そして、声のトーンを落とし、静かに告げる。

「………聞くところによると、この島にはかつて、紅葉の浮かぶ川をくぐり、紫の花咲く東の地へ向かった男がいるという」

 それは、とある男が鬼に捕まった姫君を助け出して海の彼方へ逃げていったという、この島に伝わる恋物語だった。それを遥か異国の吟遊詩人である自分に教えてくれたのは他ならぬこの姫である。入江姫の肩の震えが、ひた、と止まる。

「………そう、姫よ、このそれがしが、必ず安全にお連れいたそう。この島では『クチナシ』の花が咲いているが……そなたの行く先では、きっと、花も実を成す日が来ることであろう」

 この島に咲くクチナシという花には、『言葉は無用』という意味があるらしい。恋人同士の恋文でよく使われる、西の諸国のそれよりも婉曲で優美な、この島独自の花言葉。祈るような気持ちで、初めて見る姫君の瞳を食い入るように見つめる。

 黒真珠の様な瞳が、自分を見つめ返す。見惚れるほどに美しい。見惚れる時間も場所もまるで今この瞬間に相応しくないことが、なんと呪わしいことか。

 ほんの束の間、互いの視線が深く深く、意味深に交差する。入江姫が息を吐いた。そして衣服の乱れを静かに直し、部屋の端に転がっていたこの国独特の形の竪琴を静かに拾い上げる。そして、吟遊詩人の青い瞳を見て、数秒の間逡巡して後、問いかけた。

「これは、要るであろうか」

 離れから駆けてきた時に、愛用の竪琴は置いてきてしまった。もう二度と手に取ることはできないだろう。吟遊詩人の魂とも言える竪琴を手放してしまうとは。だが、それと引き換えにしてでも守りたいものが、目の前にある。

「………その琴を奏でる『楽人』が、道中そなたの心を安らげることであろう。安心なされよ」

 入江姫が目を閉じた。琴を胸に抱きしめるように抱え、呟く。

「『伝令』とやら。我の望む場所へ、連れて行ってたもれ」

「望む場所へ、お連れいたそう。必ず」



 兵士たちの好奇の視線に晒されながら、血と潮と鉄の匂いの香る、惨劇に満ちた館を後にする。こうも堂々と歩けば逃げているとは思われないだろう、という思惑はどうやら正解だったらしい。

 すれ違う兵士達が何かを聞こうとすれば、それよりも先に「お勤めご苦労である」などという威厳に満ち満ちた言葉を投げ返す。そうして堂々と港へ向かって歩きながら、静かに、小声でベルモンテは囁いた。

「……すまない」

 姫君が顔を前に向けたまま呟く。

「そなたと、こうして語らう日が来ようとは」

「事が露見したら連中は、僕と君を島中、片っ端から探すことだろう」

 彼らにとって神にも等しい王の名を騙ったのである。

「けれど、あの船は別だ。あの喫水線から察するに、おそらく今はたっぷり食料を積んでいる。あの兵士達の分だ。食料を降ろしたらまた大陸の港に戻るはず………」

「まさか」

「密航にかけては吟遊詩人は得意中の得意なんだ。信じて」

「つまりやはりそなたは悪い男ということか」

「そうだ。あの連中を騙して、こうしてあなたを盗み出している。そして、遠く、安全な地へ、連れ去ろうとしている悪い男だ」

 島のあちらこちらに燃える炎が、島の火山の祠の方向まで点々と続いている。島の人々のささやかな、そして大事な心の拠りどころまで奪うつもりなのだろうか。どこもかしこも美しかったはずの『虹の島』。そこの領主の燃える館を後にしながら、ベルモンテがぽつりと力なく呟いた。

「………館の皆には、とても良くして頂いたのに、恩返しひとつ、出来なかった」

 入江姫が、振り返る。

「父も、母も、館も、我の世界の全てが燃えたが、そなただけが残るとは」

 そのあまりにも静かな横顔が、炎に煌々と照らされる。

「一族の弔いの歌を唄ってくれる者だけを、天は我に残したのか」

「姫」

「否、否、我はそなたの陽気な歌が好きじゃ。我も、皆もそうだった。だからこれからも、そうあらねばならぬ」

 悲しみと、悲しみよりもより昏く消し難い炎のような感情を胸の中に仕舞い込むように顔を両手で覆い、入江姫は掌に息を大きく吐き出した。そして吟遊詩人の青い瞳を見つめ、抱えていたこの島独特の竪琴を手渡し、言った。

「さあ、悪い男よ。連れてゆけ。我が、悪いことを、我から全てを奪った者を憎むことを考えぬように、道中は明るい歌を唄ってくりゃれ」

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