20 住む世界の違う人
あのアパートに引っ越した理由は、海が好きだったからだ。
でも、毎日部屋の窓から海を眺めているせいなのか、実際に砂浜まで足を伸ばす機会はめっきり減ってしまった。
だからこうしてヨルに勧められなければ、散歩をしようだなんて考えは浮かばなかったかもしれない。
昼間は観光客たちで騒がしい海岸も、この時間になればひっそりと静まり返っている。
辺りを見回しても、遠くに帰り支度をする家族連れがいるくらいだ。
ほんのり温かい砂を靴底に感じながら、僕はゆっくり波打ち際まで進んでいった。重たい熱気を孕んだ海風が頬に心地よい。
月明かりに照らされた夜の海は、なんとも神秘的で美しい。
飲み込まれてしまいそうなほどに。
「うう」
ふと、波音に混じって人のうめき声が聞こえたような気がした。
声のする方を振り返ると、石畳の階段に人が倒れこんでいるのが見えた。とっさに辺りを見回すも、他に人影はない。どうやら、一人で海に来ているようだ。
僕は砂に足を取られながら、急いで駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「はぁ。ああ……しんどい」
Tシャツとズボンという服装のため、男性かと思っていたが、どうやら女性のようだ。彼女の胸が苦しそうに上下するのが見えた。顔に髪の毛がかかっているせいで表情は窺えない。
全身砂まみれになっているが、そんなことに気を回す余裕もないのだろう。
片足のサンダルはすっぽ抜けて、少し離れたところで砂と同化していた。周りには空になったビール缶がいくつも転がっていて、ただの酔っ払いかと内心安堵する。
放っておいてもよさそうだが、急性アルコール中毒という可能性もあるので、僕は携帯電話を取り出しながら、おそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。
「救急車、呼びましょうか?」
僕の問いかけに、彼女は呻きながら体の向きを変えて僕を見上げる。
その大きな黒い瞳と目が合った瞬間、思わず「あ」と声を漏らしてしまった。
彼女は、あの白壁の邸宅に住んでいる女性――浅利冬花だった。
切れ長の目の縁には涙が溜まっていて、瞳がうるんでいる。白い頬は紅潮していて、どこか艶めかしい色気が漂っている。
「飲みすぎちゃったあ」
浅利さんは口元を綻ばせ、人懐っこい笑みを浮かべた。そして、自分の頭をコツンと手で叩き、イタズラを咎められた子供のように、ぺろりと舌を出した。
酔っていたとしても、美人がそんな仕草をするなんて反則だ。
不意打ちにキュンとしてしまったじゃないか。
僕は動揺を悟られたくなくて、携帯電話で口元を隠しながら咳払いをする。
「大丈夫そうなら、行くね」
「えー? やーだー。一緒に飲もうよー?」
浅利さんは拗ねたように唇を尖らせると、むくりと起き上がる。ふらふらと上半身を揺らしながら、散らばっていた空のビール缶を強引に僕へ手渡してきた。
それを受け取りながら、僕は確信する。
――彼女も友達化している。
でも、前原さんと接していたときと比べて、不思議なほど彼女に対する嫌悪感や戸惑いは感じなかった。むしろ、親しみさえ覚える。
それは彼女が美人だという理由だけではなく(それも少しあるけど)僕が彼女のことをずっと意識していたからなのかもしれない。
彼女を見かける度、住む世界が違うと言い聞かせながらも、僕は彼女に密かな憧れを抱いていたのだ。
心の奥底では、いつか接点を持ちたいと切望していたのかもしれない。
言葉にすると気持ちが悪いが、有り体に言えば、ちょっとした片思いなのだ。
でも、浅利さんは僕の胸中など知るよしもない。
僕に無邪気に笑いかけながら、乱れた足取りで起ち上がったかと思うと、そのまま体勢を崩して僕にしだれかかってきた。
「うわっ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます