17 そんなもん

 だけど前原さんは僕の事情など知るよしもなく、メニュー表を広げたまま、


「ここ、俺のとっておきでさ。何食っても美味いんだわ」

「そう、なんですね」

「何か食べたいもんある? アレルギーとかあったっけ?」

「なっ、ないです、全然」

「そっか。とりあえず刺し身の盛り合わせでいい?」

「はい、それで」


 本当はホタテのバター焼きも食べたかったけど、言い出せなかった。

 やがて運ばれてきたビールで乾杯すると、やっと飲み会らしくなってきたなと嬉しくなる。

 キンキンに冷えたビールが喉をするする伝っていく。

 前原さんは残っていたビールをガブガブと飲み切ると、「ぷはっ」と吐息をついた。


「やっぱ最高だわ。店のビールって、なんでこんなに美味いんだろうな」

「は、はい。そうですね。僕もそう思います」

「ってか、北村さんと飲んだの初めてだっけ?」

「そう、だと思います」

「隣に住んでるのに、なんで今まで飲みに行かなかったんだろうな」

「不思議ですね」

「北村さんからも誘ってくれたら良かったのに」

「そ、それはさすがに……」

「そう気を遣うなよ」

「……あ、あはは」

「…………」

「…………」


 ――沈黙。


 まずい。上手に返せなかった。

 前原さんは空になったビールジョッキの縁を指でなぞりながら、視線を泳がせる。

 次の話題を探してくれているのかもしれない。

 僕も会話を盛り上げなくては。


 でも、おかしな質問をして、なんだこいつって思われたらどうしよう?

 野球、宗教、政治の話はタブーって聞いたことがある。

 それなら、仕事の話? そんなに仲良くない自分が尋ねるのは図々しいだろうか。

 少しぐらいなら構わない? いや、やっぱりやめておこう。

 じゃあ、趣味の話はどうだ? 

 ……前原さんの趣味ってなんだ? 

 マイナーな趣味だったら、話を合わせられるだろうか。また一辺倒な返事しかできなかったら呆れられてしまうかも。

 そもそも普通の人たちはどんな会話をしているんだ?

 こんなとき、宮越くんならどんな話を振るんだろう。

 そうだ、猫! コパンの話をしてみよう。前原さんなら知っているかもしれない。


 よし、訊くぞ。


「あの……猫」

「え?」


 前原さんが不審そうに眉をひそめたのを見て、それ以上言葉を継げなかった。


「なん、でもない、です」

「そう」


 ますます空気が重たくなった。舌が痺れたようになって、頭の奥がぐわんと痛くなる。

 脳内では自分とマシンガントークを繰り広げているというのに、現実では一言たりとも喋ることができないでいる。緊張で、手のひらが汗ばんできた。

 店内は酔ったおじさんたちの声で騒がしいというのに、僕たちの周りだけ厚い油膜で囲われたみたいに静かだ。


「なんか、変な感じだな。暑いからかな? 頭が回んないんだよね」

「……ぼ、僕もです」


 違う、前原さんのせいじゃない。

 この居心地の悪い雰囲気をつくっているのは、きっと僕だ。

 嫌われたくない、変に思われたくない、空気を読めない会話をしたくない。

 そんなことばかりを一生懸命頭で考えているのだから当然だ。

 心なしか、胃も痛くなってきた気がする。


「そういや……北村さんは、何の仕事してるんだっけ」

「しょ、食品工場です。コンビニのお弁当を作ってます」

「へえ! コンビニ弁当なら、俺も世話になってるよ。北村さんが作ったやつも、食べたことあるかもしれないね」

「そ、そうかもしれないですね!」


 前原さんが話題を振ってくれたおかげで、少しだけ場の雰囲気が明るくなった。


「これから仕事なんでしょ? 夜勤って大変だよね」

「そっ、そんなことはないですよ。慣れちゃえば楽ですし。……どちらかというと、にっ、人間関係が悩みっていうか」

「へえ。まあ、みんなそんなもんじゃない?」


 つれない返事に、気持ちが少し波立つ。なら、雇い止めなんかされてない。

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