8 うそばっかり
おびただしい量の鮮血がヨルの首から迸り、立っていた僕にまでビシャビシャと降りかかった。シャツは血に染まり、むせかえるような血生臭さが鼻孔を突く。
あまりにも異常な光景に目眩を覚え、たまらずその場へ座り込んだ。
だが、目の前のヨルは左手で頭を固定しながら、なおも右手でギコギコと首を掻き切ろうとしている。
「うーん、切れ味は良くないですね。百均ですか?」
三分の一ほど首を切ったところで、彼女は眉根を下げて包丁から手を放す。刺さったままの包丁と生白いヨルの首があまりにもアンバランスで、陳腐なCGみたいだ。
なんで、平然と喋っていられるんだ?
「だ、大丈夫なの?」
我ながら、間抜けな質問だと思う。ヨルもそう感じたのだろう。血まみれの顔に、呆れたような表情が広がっていく。
「これでヨルが悪魔だと信じてくれましたか?」
僕はこくこくと何度も頷いた。
「そう。良かったです」
「救急車を呼んだほうがいいんじゃない」
「いいえ。ご心配なく」
ヨルは平然と首から包丁を引き抜き、乱暴にシンクの中へ放り出した。
彼女が指先を鳴らすと、部屋中に飛び散っていた血液が逆再生するようにヨルの体へと吸収……いや、戻っていく。
首の傷も見る間にふさがっていき、あっという間に痕跡すらなくなった。
赤い血が飛び散った僕のシャツはすっかり白くなり、血の匂いも消えている。床も天井も、何事もなかったように元通りになっていた。
……一体、僕は何を視たんだ?
腰を抜かして動けない僕に構わず、ヨルはテーブルの前に座った。
「とりあえず、お話をしましょう」
「ひっ」
本当は今すぐこの場から逃げ出したかった。
でも、ここで逆らったら何をされるかわからない。
叫び出したい衝動を抑え、四つん這いのままヨルに近づいていき、向かい合うようにして腰を下ろした。自分の体が震えている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。ヨルは鬼じゃありません」
鬼と悪魔って、どっちが恐ろしいものなのかもわからない。
萎縮しきって声も発せない僕の前に、ヨルはどこから取り出したのか……一枚の紙を広げた。上から下まで、見たこともない異国の文字がびっしりと並んでいる。
ヨルに促され、僕は恐る恐る手にとって一番上に書かれた文字を眺めた。
「悪魔契約書?」
自分で言葉にしてから、はっと気づく。日本語ではないはずなのに読めてしまった。
再び恐怖が突き上げてくる。
「僕は悪魔契約なんかしない!」
「まあ、そう言わずに」
「悪魔と取引をしてまで、叶えたい願いなんてないよ」
「うそばっかり」
ヨルは、薄い唇を引き結ぶようにして笑う。
「お友だちがほしいと強く願いましたよね? 手に入らないなら、いっそ死んでしまいたいとさえ思いましたよね?」
「それは」
「わかります。わかりますよ、北村さん。人間にとって対人関係というものは、いつの時代も悩みの種ですから」
悪魔は、人間の心の隙間に入り込むという。
僕は、魅入られてしまったのだろうか。
「神があなたを見放したのなら、悪魔が救ってさしあげます」
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