6 おはよう、コパン
アパートに駆け戻って部屋の玄関ドアを閉めると、ようやく一息つくことができた。
ゴミで溢れる狭いワンルームのなかを、服を脱ぎ散らかしながら進んでいく。そのまま倒れるように布団の上へ突っ伏すと、頭の中に宮越くんや主任、同僚たちの顔がぐるぐると巡ってきて、自己嫌悪に苛まれる。
今日は、本当にツイていなかった。
もうこのまま眠ってしまおうと、無理やり目を閉じる。
すると不意に、窓の外から「にゃあ」という鳴き声が聞こえてきた。顔をあげると、すりガラス越しに、白い影がぼんやりと浮かんでいるのが見える。
四つん這いのまま近づいて窓を開けてみると、ベランダに小さな三毛猫――コパンが座っていた。ここは二階だというのに、猫というのは器用によじ登ってくるものだ。
愛らしい来訪者によって、憂鬱な気持ちはいくらか紛らわせることができる。
「コパン、おはよう」
僕は勝手につけた名前を呼びながら、頭を撫でてやった。コパンはすぐにゴロゴロと喉を鳴らして、僕の膝にすり寄ってくる。
生後半年ほどのコパンは、この辺りで可愛がられている地域猫だ。餌をあげるわけでもないのに、コパンは毎日のように部屋へ遊びに来てくれる。
コパンからすれば、大勢いる遊び相手の一人なのだろうが、僕にとって、彼は唯一の家族のような存在だった。
いつかこの町を出ていくとき、コパンも一緒に連れていきたい。
コパンだけは僕の味方だから。
× × ×
派遣会社のエージェントから電話がかかってきたのは、正午を過ぎた頃だった。
「……今、なんて言いました?」
『ですから、先方から次回の更新はしないとのご連絡をいただきました』
電話の向こうで、エージェントは淡々と繰り返す。
「だって、半年……ちゃんとやってきましたよ? けっ、欠勤も遅刻もないはずです。ノルマだって、每日果たしていたのに」
『北村さん。職場の人たちと、なにかトラブルはありませんでしたか?』
僕は、あっと声を漏らす。
「もしかして、主任が……なっ、何か言ったんです、か?」
『協調性に欠ける、とだけ』
「なっ……なんですか、それ。僕の話も聞いてください」
『申し訳ありません。また新しいお仕事をご紹介させていただきますので』
エージェントはそれだけ言うと、そそくさと電話を切ってしまった。ツーツーと無慈悲な機械音だけが耳に響く。
来月でクビ。
どうやら、主任はよほど僕のことが気に食わなかったらしい。
僕は携帯電話を放り投げ、積みあがったゴミ袋に顔を埋めるようにして倒れこんだ。
人間関係で契約を打ち切られるのは、今回が初めてではない。
高校を卒業してから五年。新卒で入社した会社を一年も経たずクビになったあとは、転がるように落ちていった。何度転職を繰り返したか、もはや覚えていない。
またもや人間関係で打ち切られた僕を、あのエージェントはどう思っているのだろう。
果たして、本当に次はあるんだろうか。
仕事を変えるたびに、どんどん生活……いや、人生が悪化していく。
あがけばあがくほど、ぬかるみに嵌まり込んでいくみたいだ。
「あああああっ!」
近所迷惑も顧みず、ありったけの大声で叫んだ。
なんでいつも僕ばっかり。僕が一体何をしたっていうんだ。
僕より仕事をしていない連中なんて、たくさんいるじゃないか。
なんのために、大人しくサンドバッグになっていると思っているんだ。
あんまりだ。
どうして、どうして、どうして。
自然と涙が溢れてきて、年甲斐もなくわんわん泣いた。でも、そんな自分をどこか冷静に俯瞰している僕もいる。
汚いワンルームのなかで、二十三にもなる男が何をしているんだろう、と。
こういうとき、良好な人間関係を築ける人は、友達にでも相談するんだろうか。
――北村が悪いんじゃない。君は頑張っていたじゃないか。
慰めでもいい。誰かがそう言って寄り添ってくれさえすれば、僕はきっと救われる。
そうすれば、僕の人生だって大きく変わるんじゃないかと思う。
……でも、そんな人は一度も現れなかった。
そばに転がった携帯電話に入っている個人的な連絡先はゼロだ。
僕が生きようが死のうが、この世界の誰にも影響を及ぼさない。そんな惨めな存在が、僕。
もう嫌だ。
僕はのろのろと立ちあがって、キッチンに向かった。しまいこんでいた包丁を棚から取り出して握り込む。
一度も使ったことのない刃は、薄暗い部屋の中でぎらりと鈍く光った。
どうせ、このまま生きていたってろくなことがないはずだ。
笑われる回数を重ねるだけの人生なら、もうここで終わりにしたい。
首筋に包丁の刃を当てて目を瞑る。チクッとした痛みに、ぞくりと鳥肌が立った。
このまま手前に引けば、一気に逝けるだろうか。
包丁の柄を握る手に、力を込めた。
と、その時だった。
部屋のインターホンが、鳴った。
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