1.ライブ
2.ずいずいずっころばし
――空気の振動は、結界のように人を包む。
つまり、「音」とは空気に溶けるものなので、
下らない「音」を
彼等はよく「音楽」を「手段」と勘違いしている。
「情熱を
それは、根本的なところで、全く間違っているんだ。
「音楽」というのは、ローマの
「音楽をやる」というのは、果てしない修行の道程のもと、苦渋を
そして忘れてはいけない。
でも、それでもやめられない。それこそ、音楽が音楽たるゆえんなのだ。
†
――これは、私の言葉じゃない。
耳にタコができるほど、繰り返し聞かされたこのセリフは、いまでも時おり、私の頭の中で勝手にしゃべりだす。もう、語る声すらあやふやだというのに。
担任が言い渡したホームルーム終了の声とともに、教室は椅子をひいて立ち上がる音と、クラスメイト達の楽し気なおしゃべりの声でいっぱいになった。だからまたあの言葉を思い出した、というのでもないけれど。
遅ればせながら、私も周りに続いて立ち上がる。すこしばかりの
この渡り廊下は、通称「ギャラリー」と呼ばれていて、壁には何枚かの油絵が飾られている。美術の授業を選択している学生が描いたものだ。
右手から差す西日がまぶしくて、思わず眉をしかめた。
この時間の光を目にするたび、昔食べた、あまりおいしいとは思えないオレンジのコンポートを思い出す。汁に漬けたタイプのものではなくて、砂糖漬けの、硬いゼリーみたいなヤツのほう。西日の色味が、それに似ている気がするから。
歩いている内に、制服のスカートがぺたぺたと内腿にからみついてきた。校舎の中がやたらと乾燥しているためだ。もたもたして、これが実に私好みでない。舌打ちしながら、スカート裾を膝で蹴り上げるようにして歩き続ける。そろそろ一年で最も水気の多い季節になるが、それはそれで、べたべたと
ずいずいずっころばしを、無意識に口ずさむ。
「ちゃっつぼーぉにおーわれってとっ、ぴん、しゃん。ぬっけたーぁらどんどっこしょ」
――あの歌、裏の畑で茶碗を割ったのは、誰だったのだろう?
ぼんやりと考えていたら、ついでに、あの日
何だか、ずいぶんべったりとした黒髪の青年だった。佐久間さんの隣に並んでいた彼が、視界のすみで、静かに泣いていたことだけは記憶している。なんだか、光が白く彼の顔を照らしていたせいで、どんな顔をしていたかは全く憶えていない。ただ、あんたが泣くのかと、そう思った。
白と黒のコントラストは、際立ちすぎると、ひとの輪郭をぼやけさせてしまうのかも知れない。なのに、印象としての焼き付けられ方はすごいから、その時のビジョンを、私は忘れられないでいる。
「ずーいずーいずっころばぁしごぉまみっそずい――」
あの日、茶碗は、かっちゃん、と味気なく割れた。
階段を駆け上がる。自分の立てている音だが、本当にやかましい。バタバタと走る色気のないゴムスリッパは緑色で、これは学年ごとに色が違う。一年は紺で二年は海老茶。そして三年が緑だ。公立高校で採用される小道具は、
ようやくの思いで、三階にまで、たどり着いた時には、大分息が切れている。この年で運動不足は、あんまり実感したくないものだ。一つ大きく息を吐き、階段の前を貫いている廊下の左方に首を、すい、と向けた。
音楽室は、この廊下の突き当たりにある。
音楽室に至るためには、右手にずらりと並ぶ個人レッスンルームを一通り
左手に目を向ければ、窓ごしに、さわやかな五月の中庭が見下ろせる。この学校は高台に建っているから、そのさらに先に広がる見慣れた風景も、なかなか悪くない。
てくてくと廊下を歩いて、最奥にある音楽室前までたどり着くと、開け放たれていたドアから、ぺたり、と一歩、なかへ足をふみ入れた。
「――……。」
一瞬、しんとする。
部員達がちらと私を見て、すぐに視線をそらした。
別に、気に留めるようなものなど何もない。これも、いつもの見慣れた風景だ。ふいにホルンの
音楽室では、すでにファーストヴァイオリンのパート練習が始まっていた。今年の一年生に一人、破格に上手い男子がいる。おかげで、今の音楽室に立ち込める「空気」は、すこぶる居心地がいい。
鞄を机の上に投げてから、楽器を取りに行こうと顔を上げて、ふと、何やら楽器庫の中が騒がしいことに気付いた。どうやら中でベースパートとチェロパートが
刹那。
くらりと
視界が白と黒のコントラストで染まる。首筋が、冷えてひどく脈打つ。光の底にいる、あなた。
ねぇ、
――あなたは、一体誰?
はっとして、息を吐き出した。実際に、いま私の目の前にあるのは、普段と何も変わらない、いつもの風景だ。トゲや、反発や、違和感なんかを、目一杯抱え込んだ眼差しで、部員達が私を見ている。ただそれだけ。何も動揺する理由なんてない、だのに――動悸は激しく聞き分けない。
今のは、一体何だったのだろう。
幾度か瞬いて、ようやっと正気を取り戻す。
改めて見ると、普段と違うものは確かにそこにあったのだ。
そこでは、見慣れぬ男が二人、うちの部員に取り囲まれていた。
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