第3話・夜勤初日

 曇り空で月も星も一つも見えない夜。こんな時間に出歩くなんて久しぶりだと思いながら、千咲は職場へ向かう道を歩いていた。最寄り駅から徒歩15分。駅前というには少し遠いが、車で来る客と駅からの客の両方を呼び込める立地。程よく人が通り、程よく静か、そんな場所にネットカフェ『INARI』は存在する。


「おはようございます」


 こんな夜中にお早うも無いだろうと思いつつ、いつも通りに挨拶しながら入店する。これまでは迎える側だった夕勤の学生バイトが、先にカウンターの中にいる光景はちょっと新鮮だ。互いに同じことを感じたのか、ヘラヘラと笑い合う。


「白井さんはもう来られて、ブースのメンテに行かれてます」

「了解です」


 夜勤初日、少し早めに出勤したつもりだったが、先輩社員からは出遅れてしまったらしい。慌てて着替えを済ませると、千咲は白井の元へと向かった。


 小音量ながらもUSENが流れているエントランスとは違い、その空間はしんと静まり返っている。古い印刷物の少し鼻につく独特の匂いと、乾いた空気。

 フロントから入って右手、防音扉を抜けた先には、五万冊が並ぶコミック棚が立ち並んでいた。高さ2メートル近い木製棚には新旧のコミックスがぎっしり詰まっている。入って手前に設置された低めの棚にはブランケットとスリッパ。その上には蔵書を検索する用のパソコン。


 この蔵書コーナーのさらに奥には、禁煙席と喫煙席とに分かれたブースが全部で50席。個室席はフラット、リクライニング、キャスターの三種類で、ペア席には二人掛けソファーが設置されている。どのブースにもデスクトップ型のパソコンがあり、映画やテレビが見放題だ。


 ぐちゃぐちゃに乱れていたブランケットをさっと畳み直してから蔵書コーナーを抜け、禁煙席を通り過ぎ、千咲はブース空間を区切っている扉を手前へ引く。

 木枠の大きな扉を開いた瞬間、むっとする煙草の匂いにむせ返りそうになる。ここから先は喫煙席だ。いろんな種類が混ざり合った煙によって、ひどい時にはこの空間だけが白んで見える時もある。空気清浄機を設置しても全く追いつかない。でも、今日はまだマシな方だろうか。


 喫煙席の一番隅っこ、1のプレートが貼り付けられたブースを覗くと、中に向かって声を掛ける。


「白井さん、おはようございます。今日からよろしくお願いします」


 初の夜勤。そして、社員としての初めての勤務だ。店長と共に推薦をくれた白井にはきちんと挨拶をしておこうと、今日は早めに来たつもりだった。パソコンソフトのアップデートをしていたらしい先輩社員は、モニターの電源を落としながら振り返る。そして、千咲の顔を見るなり目を細めてキッと睨みつけて言い放った。


「失せろ!」

「え、えっ、えっ?!」


 ただ挨拶しただけで、まだ何もしていないのにと千咲は狼狽える。自分へと向けられた視線のあまりの冷たさに、思わず涙ぐんでしまう。どうしてここまで嫌われているのか、さっぱり分からない。千咲以外で、彼から睨まれた話なんて聞いたことがない。どうして自分だけ……。


「あ、いや、違う……」


 威嚇するような冷えた瞳が、千咲の反応に慌て始める。無造作風にセットされている栗色の長めの前髪をワシャワシャと掻くと、困ったように天井を見上げている。綺麗に整った顔が、苦悩で少しばかり歪んでみえた。そして、ハァと溜め息を吐き出してから、ぽつりと申し訳なさげに呟いた。


「今のは、鮎川に言ったんじゃない」


 そう言ってから、それじゃ分からないかと再び前髪を掻き上げる。困った時や考える時の癖なんだろうか。

 利用客の居るブースから、煩いとばかりに咳払いする音が聞こえてきて、白井は顎をくいっと動かして「フロントへ戻れ」と千咲へ指示を出す。そろそろ夕勤メンバーとの引継ぎ時間だ。ブース内には誰かのイビキも聞こえ始めていた。


 フロントに戻ってみると、カウンターの隅に積み上げられていたのは、今日入荷したばかりの新刊コミックスと月刊誌。それぞれにショップスタンプを押してから、コミックスにはビニールのカバーを掛けていく。「新刊登録は終わってるらしいです」とは引継ぎで聞いていたので、それらを黒色のワゴンに乗せる。


 これ以上、辛い思いはしたくない。傷付けられたくはない。白井のことを避けるように、エントランスに隣接した分厚いブラウンの扉を横に引く。


 入ってすぐの雑誌コーナーへ、千咲は入荷したばかりの新刊を並べていく。その際、代わりに廃棄する一番古い物を選んで抜き出す。

 コミックスも入り口の一番近くに設置された新刊コーナーに、入荷順を入れ替えながら、表紙が見えるように並べ替えていった。


 これは本来は朝一の仕事なのだが、日勤メンバーでは新人の研修で手が回らなかったのだろうか。どの時間帯にもそれぞれ任された業務があり、一旦どこかで滞ってしまうと際限なく作業が溜まってしまう。年中無休24時間営業だと、休業日に一気に片づけてしまうということができないからだ。


 新刊の入荷作業を終えてフロントへと戻ると、白井が来店したばかりの客に店内システムの説明をしていた。リピーター客の受付だと「お席のご希望はございますか?」だけのあっさりした接客で終わってしまうが、初めての客には席の種類や料金の説明など、伝えなければならないことがとにかく多い。


「出来るだけ寝やすい席で。シャワーってすぐ使える?」

「では、リクライニングシートでご用意させていただきますね。シャワーセットは後ほどお席にお持ちいたします。シャワールームの場所は、そちらのドリンクコーナーを越えていただき――」


 流れるような説明に、千咲はほうっと関心していた。当然ながら日本語でのやり取りなのだが、どこか海外のホテルのフロントを思わせる。ピンと伸びた背筋に加えて少し日本人離れした顔立ちが、白井の周囲に非日常的な雰囲気を感じさせるのだ。


 席の案内にフロントを出ていく白井の後ろ姿を見送りながら、千咲はさっきのことを思い出していた。


 ――私に言ったんじゃないって、じゃあ誰に? 咄嗟の言い訳にしてはちょっと雑じゃない?


 白井はほぼ会う度に、千咲のことを強く睨みつけてくる。冷え切った瞳で威嚇するかのように。それは初対面の時も同じで、皆にそういう態度を取る横柄な性格の人なのかと思っていたが、全くそうじゃなかった。接客以外では無愛想な時も多いが、他のスタッフに対して敵意をむき出しているのは見たことはなかった。


 ――嫌ってるくせに、推薦はしてくれたんだ……。どうせ店長に頼まれて、仕方なくなんだろうけど。


 三か月の試用期間が終われば、社員としての配属替えの希望も出せる。同じ店にいて先輩社員から疎まれるくらいなら、移動させてもらうことも考えようと、千咲は下唇を噛みしめて、溢れそうになる涙を堪えた。

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