第2話・社員登用と夜勤
ドリンクバー横に設置された食器返却口は、少し目を離しているとすぐいっぱいになる。退店時にまとめて返していく人もいれば、飲み物のお替りを取りに来るタイミングやトイレに立ったついでに置いていく人も。
順番に洗い物を処理していると、エントランスから「いらっしゃいませ」という機械音が聞こえてきた。自動ドア付近に設置されているセンサーだ。厨房の壁面モニターを見上げると、主婦パートである大村貴子がフロント前を通過する姿が映し出されている。車通勤の為にいつも制服を着てやってくる貴子は、荷物を置いてからすぐに厨房へ顔を見せた。
「おはようございます」
「おはよう、千咲ちゃん。忙しい?」
タイムカードを通し終えると、厨房の手洗い場の鏡を利用して髪の毛を整えている。まだ結婚一年目だという貴子は、平日に休みのある夫に合わせてシフトを組んでもらっている為、土日をメインに入っている。反対に、子持ちであるもう一人の主婦――相田美紀は平日限定パートだ。
貴子は手首に嵌めていたシュシュで髪をまとめ直し、冷蔵庫の中をチェックし始めている。
「ミニサラダがあと少しだね。他は、大丈夫かなぁ」
小さめのココット皿に作り置きされているミニサラダの数を確認して、必要な材料を冷蔵庫から出していく。出勤して早々でテキパキと作業を開始できるのは貴子の高い主婦力のなせる技だろう。
「ブースがちょっと荒れてるんで、これ洗い終わったらバッシング行ってきますね」
「はぁい、お願いしまーす」
食洗機用の篭に余洗いが終わった食器を並べていく。千咲の後ろでは、貴子がレタスをちぎっている。
「そう言えば、私、昨日の夜に忘れ物を取りに来たんだけど、初めて夜勤の人達と会ったわ。半年はいるのに今更『初めまして』って変な感じだったよ。千咲ちゃんはいつも朝に会ってるでしょ?」
「そうですね。今日は井口君だけでしたけど」
「あの社員さんは? 夜にはいたけど?」
「白井さんは7時までだったらしいですよ」
千咲の答えに「へー」と呟くと、貴子はクスクスと笑っている。24時間営業だとどうしても、タイムカードや連絡ノート、シフト表等で名前は何度も見かけることがあるのに、入れ違いもせず顔を合わすことのないスタッフがいることがある。
「夕勤の女の子達がイケメンだって言ってたから、めっちゃ見たかったんだよねー、白井さん」
「実際、どうでした?」
「んー、まあまあかなぁ。私はゴツイ人のが好きだから、どっちかと言えば井口君派だね」
蓋を下ろして食洗機を起動させながら、千咲は夜勤の白井の顔を思い浮かべてみる。顔立ちが整っているという点では、確かにイケメンの部類だ。高過ぎず低すぎない身長に、濃くはないけれどはっきりした目鼻立ち。確か睫毛も、結構長かった気がする。
けれど、たまに入れ違いで顔を合わせる時、キッと強い視線で睨まれることがあり、千咲はちょっと苦手だった。それも人によっては、目力があるとかって表現されるんだろう。イケメンは得だ。
夜の利用客が全て退店して、10時を過ぎれば昼のフリータイム狙いの客へと入れ替わる。オンラインゲームとコミックス目的の利用者が半々といったところだろうか。二人に一人はヘッドフォンとコントローラーの貸し出しを希望していく。
ランチタイムのオーダーが落ち着いた頃、店の前で原付バイクが停まる音が聞こえてきた。千咲は聞き慣れたその音で、すぐに店長の中森の物だと分かった。別にバイク好きでも何でもないが、彼のバイク音だけはなぜかいつも聞き取れてしまう。エンジン音に紛れて、何か違う音が混じっている気がして。それもかなり苦しそうな音に聞こえて仕方がない。
どこか壊れているんじゃないかと心配して、それとなく伝えてみたこともあるが、「えぇ、やだなー。ホラーじゃん」と笑い飛ばされてしまっただけだった。
「単に重量オーバーなんじゃないの?」
その時に一緒に聞いていた相田はしれっと本音をぶつけていた。中森の真ん丸な体型を見ていれば、ついそう言いたくなる気持ちは分かるが……。それに対しても中森は怒ることなく穏やかに笑い返していた。バイトを始めてからまだ一度も、店長が怒っているのを見たことがない。
厨房とフロントのどちらからも行き来できる事務スペースは、二畳あるか無いかという狭さで、そこにパソコンデスクや棚、防犯カメラのモニター等が詰め込まれている。そんなとてつもない狭小空間に中森がいる様は、すっぽりと収まっているという表現しか思い浮かばない。
「鮎川さん、ちょっと話いいかな?」
厨房で洗い物をしていた千咲が、人懐っこい笑顔を浮かべた中森から呼び止められる。作業をやめて事務スペースに入ると、デスクと壁ギリギリに置かれた椅子に座った――否、嵌り込んでいるようにしか見えない店長が、シフト表を眺めて眉を寄せていた。後頭部の髪が一束、ヘルメットで付いた癖で上を向いている。
「なんでしょう?」
「あ、ごめんね。ちょっと相談なんだけどさ。次のシフトのことでね」
少し言いにくそうに、言葉を選んでいる。
「昨日、日勤希望の人を一人面接したんだけどね。良さそうだったし採用しようと思うんだよね」
「そうですか」
「でね、昼は相田さんと大村さんが居るし、僕も打ち合わせとかで昼の方が都合がいいんだよね。あと、夕勤は学生さんで人足りてるし。だからさ、鮎川さんには次から夜勤メインで入って貰えると助かるんだけど……」
突然のことに、「え、夜勤ですか……?」とそのままを聞き返す千咲に、中森はうんうんと首を縦に振って見せる。
「川上君が引っ越すらしいんだよね。斎藤君も来年から就活が始まっちゃうし……そうなると、夜に入れる子が井口君だけになるんだよ。夜勤だけ人が全然足りないんだよね」
「え、でも。最初の面接の時に、昼だけって話だったんですけど?」
「うん、そうだったよね。あの頃は鮎川さんも学生だったし、夜勤も人がいたしね。でも今の君が学生じゃないのと同じで、今は店の状況も変わっちゃってるんだよね」
のんびりとした宥めるような話し方に、自分本位な反論が独りよがりで悪いことのように感じさせてくる。
”狸親父” ふとそんな単語が頭をよぎった。親父と呼ぶには中森はまだ若いはずだが、したたかな喋り口調とその丸い腹にはピッタリだ。
「で、でも、夜勤ばかりだと就職活動に支障が……」
短大卒業後、就職浪人になってしまった千咲は、ここではもう完全にフリーター扱いだった。でも、まだ社員として働くことを諦めた訳じゃない。バイトの無い日は職安を訪れたりと千咲なりに活動は続けているところなのだ。
それを聞くなり、ポンと手を打つ仕草をすると、中森は今日一番の笑顔を見せる。
「じゃあ、うちの会社に就職しちゃえばいいよ。いきなり正社員は無理かもだけど、契約社員なら僕と白井君で推薦してあげるよ。うん、それがいいね」
契約社員の時給を聞かされて一気に揺らいだ千咲へ、狸親父ならぬ中森店長はニコニコとご機嫌で頷き返す。
急に湧いて出た社員登用の話に、千咲は軽く頭が混乱してくる。大した資格も無く、受けた面接は全敗状態だった。ずっとフリーターでやっていくつもりは毛頭ないが、まともに就職できる自信も無くなり掛けていたところだ。
――でも、夜勤だと白井さんとずっと一緒かぁ……。
白井から向けられる冷たい視線を思い出し、盛り上がり始めた気分が一気に萎えてくる。一方的に嫌われているような気がするが、上手くやっていけるだろうか、と。
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