第44話 変化

 俺とまひろは、再び不妊治療の病院に足をはこんだ。

 そこで説明を受けた、子どもを授かるためのプランはいくつかあった。

 俺たちが選んだのは、その中の一つ。

 既に二人の子どもがいる兄貴に、協力を仰ぐことだった。


「どうか、私たちに力を貸してください。お願いします」

 俺とまひろは、兄貴の家の居間で兄貴と兄嫁に頭を下げた。

「ふーん……どうしよっかなぁ……」

 俺とまひろの間に子どもができない事情を聞いても、兄貴の態度はこうだ。

 どうしようか、と言いつつも、真面目に考えてなんかいない。

 そもそも、俺なんかに関心がないんだ。

 くそっ!

 俺は悔しくて、兄貴を睨みつけた。

 隣に立つまひろは、未だ頭を下げ続けている。

「大丈夫よ、まひろさん! さあ、顔を上げて!」

 突然、兄嫁が叫んだ。

 俺は驚きのあまりあ然とする。

 そんな俺には目もくれず、兄嫁は頭を下げ続けるまひろの手を取って握りしめ、にっこりと微笑みかけた。

「必ず協力させますからね! 必ず!」

「あ、ありがとうございます!」

 二回も必ずって言ったよ……そこまで固い意志で? まあ、助かるけど……

 まひろは、必ず、と言って力強く頷いた兄嫁に涙ぐんでいた。

 兄貴はそれを見て、面白くなさそうな表情かおをする。

 まあ、兄貴はそうだろうな。

「私、一人っ子で、ずっと妹が欲しかったの」

 ポツリ、兄嫁がこぼし始めた。

 そして、俺と兄貴を交互に見つめ、小さくため息を吐いた。

「うちのパパとタケルさんは、二人きりの兄弟だけど、あまり仲が良くないのは私も感じてる。だからといって、無理やり仲良くする必要もないとは思うけどね」

 ああ……俺たちのことか……

 うん。きっと兄貴とわかりあえる日は、永遠にこないと思う。

 兄嫁は、まひろにあたたかい視線を送った。

「まひろさんは、私の義理の妹。同い歳だけどね。でも、私は妹ができて本当に嬉しいの。そんなまひろさんが困ってて、うちが協力できることがあるなら……ねぇ、あなた!」

「あ、ああ、うん……まあな……」

 急に兄嫁にふられた兄貴は、引きつった笑みを浮かべた。

 気のせいかな、兄嫁の視線がなにやら鋭く感じるんだけど……

「じゃ、準備が整ったら、また連絡しますね!」

 玄関先で兄嫁が笑って手を振った。

「まひろさん、今度一緒に映画でも観ない?」

「いいですね! その後一緒にランチしましょ!」

 なんだか和気あいあいな二人の嫁。

 それに引き換え、俺たち兄弟の間に流れる空気は、しんとしていて冷たく感じた。

「ちぇっ……お前もドジんなよ」

 え? ドジる? それどういう意味だ?

「行きましょ、タケル! おじゃましました!」

「あ、あぁ……」

 半ば強引に腕をひかれて、俺は兄貴の家を後にした。

 

 この時、ボソリと言った兄貴の言葉をちゃんと理解できたのは、その二週間後……

 まひろが兄嫁と遊んだ日の夜のことだった。


「は……浮気? あの兄貴が?」

 俺は、あやうく口の中のハンバーグを吹き出しそうになって、慌てて水で喉の奥に押し流した。

「そうなのよ……しかも相手のひと、同じ会社の若い娘みたいなの」

 まひろの表情は、嫌悪感で満ちている。

 無理もない。

 なるほど……この間の『お前もドジるな』っていうのは、そういう意味だったのか……

「いや……でもちょっと……すぐには信じられないな……言っちゃ悪いけど、あの兄貴のいったいどこにそんな魅力があるんだ?」

 俺は口元に手を当て、考えてみた。

 体格はずんぐりむっくり、髪は薄い、顔の造りも俺から見ればイマイチだ。

 悪いけど、若い娘と付き合えそうな要素なんか、一つもないような気がする。

「え……そりゃ、お金じゃない?」

「あー……金か……」

 なるほど、それならわかる気がする。

「お付き合いするための費用が、お小遣いだけじゃ賄えなくなって、何度も追加をせがんだから、お義姉ねえさんにバレたみたい」

 おいまひろ、そんな目で俺を見るなよ。俺は兄貴とは違うんだからな!

「念の為言っとくけど、俺はもう大丈夫だからな! もう客とプライベートで会わないって、前に言っただろ?」

「そうね……口ではなんとでも言えるから……でも、私はタケルを信じてるよ」

 ニッコリ笑ったまひろに、俺は心底ホッとした。

「あ、そういえば明日の夜はサトルと飲むから、夕飯はいらないよ」

「へぇ、珍しいね! 川上さん、こないだは四人で会わないかって聞いてきたのに、気が変わったんだ?」

「うん、なんでもみさきが嫌がったらしいよ。だから、男二人で飲もうかって話になった」

「そうなんだ……みさき、なんで嫌だったんだろ……ちょっと後でメールしてみよ」

「うん、ごちそうさま」

 俺は食べ終わった食器をシンクに下げ、風呂に向かう。

 ふと、壁に掛けられたジェットコースターの写真が気になって、その前で足を止めた。

 見つめる先の写真には、恐怖に目を瞑る俺と、満面に笑みを浮かべてバンザイしているまひろが写っている。

 なぜか記憶がおぼろげの、ヘイリーランドでの出来事。

 俺は指で、空いているまひろの隣の席をなぞった。

「夢でも見たんだろうな……なぜか、月を見てると、女の子が浮かんでくるんだよ」

 まひろにそっくりな、笑顔がとびきり可愛い女の子が。

「えっ、タケルもなの?」

「……てことは、まひろもか?」

 俺たちは顔を見合わせて笑った。

「これ、予知夢だったらいいなぁって思ってたの。気が早すぎるかもしれないけど、私ね……もし女の子ができたら、名前はもう決めてあるんだ」

 あ……実は言わなかったけど、俺も考えてたよ。

「美しい月、って書いて、ミツキちゃんっていうの……どうかな?」

 うん。ビンゴだ。

「いいと思うよ」

 近い未来で、俺たちはあの女の子に会えるような……そんな予感がしていた。


「なあ、同じ女とそんなに長く一緒にいて、飽きないのか?」

 何杯目かの生ビールを飲み干したサトルが、眉間に皺を寄せて聞いてきた。

「おい、俺をお前と一緒にするなよ。っとに、お前にはかわいい娘が二人もいるだろ?」

 俺はつまみの焼き鳥を串から外す。

「娘かぁ……確かにな、可愛かったよ……小さい頃はさ」

「小さい頃? 今いくつだったっけ?」

「十歳と八歳」

 それ……まだ小さいの部類に入らないか?

「二人とも、パパは嫌いなんだってさ! けっ! かわいくねぇの!」

「そりゃ淋しいだろうな、気の毒に」

 途端にサトルがムッとした表情かおになる。

「仕方ないだろ、俺は忙しいんだから!」

「いや、仕方ないって、俺に言われてもな」

 それ、みさきに散々言ってきた台詞だろ?

「お前のとこは自営なんだから、毎週同じ曜日が休みなんだろ? 家族サービスしようとすりゃ、できるんじゃないか?」

 今からでもさ。

「いや……正直、俺は家庭が重いよ……それに、みさきだって変わっちまったし……お前はみさきと会ってないだろ、見ろよ、これが最近のみさきだ」

 は? 重い? 変わった?

 サトルがスマホの画面を見せてくる。

 そこには、まあ……確かに独身時代とは違うみさきが写っていた。

 でも、俺にはサトルが言う体型のことより、なんだか冷たく感じられる無表情の目の方が気になった。

「まあ、確かにぽちゃっとしてるように見えるけどさ……そこが問題なら、二人で話し合えばいいじゃないか。そうしたら、みさきだって変わるかもしれないだろ?」

「わかってねぇな……俺には、もうみさきが女には見えないんだ」

 はあ、とサトルは大きくため息を吐いた。

「あいつはもう、うちの娘たちの母親でしかないんだよ」

「んー……そういうもんなのか?」

 俺には、よくわからない。

「お前はいいよな、まひろを独り占めできてさ」

「そうは言うけど、俺はお前が羨ましかったよ。子どもが欲しくても……俺には、難しかったから」

「ふぅん……なんだ、子どもができない原因て、やっぱりお前だったのか」

 あ? やっぱりだと?

「あーあ、お前があの客と浮気してりゃ、俺がまひろに子づくりの協力したのになぁ……なぁんちゃって、冗談! アハハ!」

 冗談だって? 嘘つけ、本気だっただろ⁉

「サトル、お前は他人の家庭より自分の家庭に関心持てよ。じゃないと、いつかみさきに愛想を尽かされるぞ」

「……いいんだよ、うちはさ……すみませーん、生ビールおかわり!」

 叫ぶサトルの姿に、手本となる父親像は見当たらなかった。

「反面教師にしよ……」

 俺はボソリと呟いて、グラスに残るぬるくなったビールを一気に飲み干した。

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