第43話 月はそこにある
「来ないね……カミさんとミツキちゃん」
カチコチとリズミカルな音をたてる時計を見上げ、まひろが大きなため息を吐いた。
時刻は、もう夜の十時を過ぎている。
「ごちそう、用意しておいたのにな……」
「この時間じゃ、もう来ないだろう……ミツキちゃんは、寝る時間だろうし」
俺は冷えた缶ビールを冷蔵庫から取り出して、いつもの席に座った。
目の前のテーブルに、所狭しと並ぶオードブル。
不審者とミツキちゃんが来るかもしれないと、まひろが用意したものだ。
「タケルと二人だけで食べるには多いから、少し片付けよう」
まひろはそう言いながら、いくつかの皿にラップをかけ、それを冷蔵庫にしまい込んだ。
俺はテーブルに残された唐揚げを口に放り込む。
今朝、俺はミツキちゃんたちとの別れを済ませた。
だけど、真実を知らないまひろは、それができていない。
でも、大丈夫だ。
ミツキちゃんたちが本来いるべきところに帰ったら、俺たちは忘れてしまうんだから。
一緒に過ごした楽しかった記憶も、残されたさみしさも。
「私、ミツキちゃんに渡すのを忘れないように、色々荷物をまとめておいたんだけどな……こないだ私が買った服やパジャマもあったし」
ダイニングの隅には、パンパンに膨らんだ大きな紙袋があった。
「またいつか来るかもしれないから、クローゼットに入れておけば?」
「うん……そうする」
まひろは紙袋を掴み、自分の部屋へと歩き出す。
俺はダイニングの窓を開け、夜空を見上げた。
「寒っ……あぁ、でも星がきれいに見えるな」
雲一つない夜空には、白く光る小さな星と細い月がある。
ミツキちゃんたちは、いつ帰るんだろう。
俺たちは、明日の朝には、もうすっかり忘れているんだろうか。
「しまってきた……荷物」
部屋から戻ってきたまひろが、俯き気味に立っている。
俺は小さくため息を吐いた。
「ミツキちゃんは、俺たちに会ったら別れが辛くなるから、来るのをやめたのかもしれない。まひろ」
俺は冷蔵庫から冷えた缶チューハイを取り出して、まひろの横に立った。
甘いフルーツ味の缶チューハイ。あまり酒に強くないまひろの好きな、アルコール度数が低いものだ。
「うん……そうだよね……じゃ、私も飲んじゃおうかな」
まひろぎこちなく笑って、俺から缶チューハイを受け取った。
俺には、ミツキちゃんのことを忘れない内に、ちゃんとまひろに伝えておかないといけないことがあった。
あ、なんだか緊張してきた。
「まひろ……俺さ、その……やっぱり、もう一度ちゃんと話を聞きたいから、予約をとってくれないか」
なぜか、心臓がドクンドクンといっている。
「え? 予約? なんの?」
缶チューハイのプルタブに指をかけたまひろが、きょとんとしている。
う、駄目だ……まともにまひろの顔が見られん。
「うん、だからその……例の病院の……」
い、言った、言ってしまった!
ダン、とまひろが手にしていた缶チューハイをテーブルに置いた。
「ありがとう、タケル!」
ぎゅっと抱きついてくる、まひろの柔らかさとぬくもり。
ああ、顔から火が出そうだ。
「あ、いや……こないだあんな風に言ったばかりなのに、なんだかなって感じだけど」
「私、嬉しいよ! 明日、病院に電話するから!」
「え、あ、うん……頼む……」
ようやくちらりと見られた先のまひろは、にこにこしていた。
良かった……少しは元気になったみたいだ。
やっぱりまひろは、笑っている方がいい。
俺が、安心するから。
「乾杯!」
あらためてお互いの席につき、俺とまひろは缶をぶつけ合った。
「もしかして、タケルの気持ちが変わったのって、ミツキちゃんのおかげだったりするのかな?」
つまみのナッツを口にしながら、まひろが言った。
脳裏に、昨夜ヘイリーランドではしゃいでいた、ミツキちゃんの笑顔が浮かぶ。
胸がぎゅっとする。
俺はそれを押し流そうと、缶ビールを喉の奥に流し込んだ。
「可愛いかったよねぇ、ミツキちゃん……正直、あまりに私に似てたから、他人とは思えなかったよ。あーあ、昨日の今頃は三人一緒にいたのになぁ……なんか、さみしいから昨日撮った写真見よ!」
まひろが自分のスマホを操作し始める。
昨日ヘイリーランドのキャラと一緒に撮ったあの写真も、やっぱり消えてしまうんだろうか。
「ほら見て! タケルのげっそりした顔! あはは!」
「それ、コーヒーカップに乗り終わった直後のやつだな……そういえば、あの大きな写真は壁に飾ったんだな」
「うん。ジェットコースター落下中の写真ね……ちゃんと飾りたかったから、今日お店で額縁を買ってきたんだ」
俺は頷き立ち上がって、きちんと額に入れられている写真を見た。
まさにジェットコースターが落下している最中に撮影された写真。
満面の笑みを浮かべて、バンザイしているミツキちゃんとまひろ。
そして、目を瞑って必死にバーにしがみついている俺。
「何回見ても、俺、かっこ悪……」
やれやれと惨めな自分からふと視線を逸らした時、なにかが記憶に引っかかった。
「なんだろう……」
もう一度、今度は写真の一点を注意深く見つめる。ミツキちゃんの手首のあたりだ。
ブレスレットのように手首に巻いていた、子猫用の首輪。
「あれ……これ……鈴がついてないように見える」
そういえば今朝も、月のチャームにばかり気が行って、前はチャームの横にあった、黒くて小さな鈴の存在を忘れていた。
ミツキちゃんと初めて会った日、基礎の金具が外れたせいで落ちて、俺が自分の手持ちのパーツでつけ直した黒い鈴。
「そういえばこれ……カミさんからもらったのよね」
「え……まさか、鈴?」
まひろはびっくりした顔で、振返った俺を見た。
「正解……なんでわかったの?」
「いや、なんとなく……でも、なんで外れたんだろ……俺、ちゃんとつけ直したんだけどな……ちょっと見せて」
はい、とまひろから渡された鈴には、確かに俺がつけた丸カンと呼ばれるパーツがついていた。
しかし。
「なんか、歪んでる……わざと外したような……まさか、あいつが?」
思い当たるのは、不審者しかいない。
俺がミツキちゃんの鈴をつけ直している間、俺の動作を盗み見ていたんだろう。
「まひろ、不審者……いや、カミさんのこと、俺の部屋に入れた?」
「え? いや、そんなことした記憶ないけどな……あっ、でも、こないだみさきとランチしてる間だけ、一人で留守番してもらってた……なんで?」
ああ、そうか。その時に俺の部屋で鈴を外したんだな。
「いや……慣れてないのに、頑張ったんだなって思ってさ……この鈴、家の鍵のキーホルダーにつけようか」
「うーん、家の鍵かぁ……それ、ミツキちゃんが手首にはめてたアクセサリーの鈴よね?」
言いながら、まひろは耳たぶからピアスを外した。
「これに、つけられる? その鈴」
まひろのピアスには、きれいなブルーグリーンの石がついている。
それは二センチくらいのドロップ型で、施されたカッティング部分が光を反射してきらきらと輝くようになっている。
「鈴をつけたらどうなるか、やってみようか」
俺は自分の部屋に行き、愛用のペンチ二本を持ってリビングに戻った。
両手にペンチを持ち、鈴についている丸カンを広げる。
おそらく不審者がつけただろう丸カンの歪みは、なんとかごまかせるレベルだったから、そのまま使った。
「こんな感じになるけど……どう?」
俺はピアスのフックと石とのつなぎ目に、鈴をつけた。
「おー、なんか黒って引き締まる色よね……どれどれ、つけてみよう……どう? 変かな?」
まひろは鏡も見ずにピアスをつけて、俺に感想を求めてきた。
「うん、黒は合う色が多いベーシックカラーだから、いいと思うよ」
「ほんと⁉ よぉし、鏡見てこようっと」
うきうきと席を立つまひろの背を見送りながら、俺は思う。
あの鈴を見ても、俺はなにも思わなくなるんだな、と。
ミツキちゃんも、不審者のことも……二人に抱いた感情も、すべて。
今はこんなに色鮮やかに思い出せるのに……多分、明日の朝には何一つ思い出せなくなるんだろう……初めから、なにもなかったかのように。
「月が出ればいいな……毎日」
『夜空に浮かぶ月が君の瞳に映る間だけ、記憶が戻るようにしようじゃないか。これが、私にできる最大限のおまけだ』
脳裏に、黒い女の言葉が蘇る。
俺は目を伏せて、窓から見上げた細い月を思い出していた。
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