第30話 川辺のタケル

 ずっと前からしなければと思っていた、まひろとの話し合い。

 俺が別れたいと言ったら、まひろはどう答えるだろうか。

 俺は、話を切り出す前までずっとそれを考えていた。


 わかった、とすんなり受け入れるか。

 それとも、待ってくれと引き留めるか。


 本音を言えば、別れなくないと引き留めて欲しかった。

 実際に、まひろがそうしてくれて嬉しかったのは事実だ。

 だけど、それだとまひろはずっとママになることができない。

 もちろん、今の時代、選べば子を得られる術があるのは知っている。

 でも俺は、それらを選びたくなかった。

 俺は、俺の遺伝子を持つ子どもが欲しかったから。

 あの親と兄を見返すための、石山家の血を引く可愛い子どもが。

「重い……もう、開放されたい」

 まひろと別れたら、この勝ちたいという気持ちとおさらばできるだろうか?

 俺が生み出した小さな声音は、目の前の川音に飲み込まれて消えていく。

 隣の市にある河川敷。

 まひろは、もう一度病院に行こうと言っていた。

 嫌だ。

 また病院に通うなんて、とても耐えられない。

 行けばきっとその度に、お前は能無しだと蔑む親と兄の姿が浮かんでくる。

「もう、ずっと昔のことなのにな……」

 俺の心は、いつまで暗い記憶にとらわれたままでいるんだろう。

 結婚して、子どもができて、順風満帆な日々を過ごしていれば、俺は勝てたのに。

 ……本当に、勝てていただろうか?

 わからない。

 俺は、朝から日が暮れる今まで、ずっと目の前の水面を眺めていたが、なんの答えも出なかった。

 俺は冷たくなった手を暖めようと、ポケットの中に手を入れる。

 がさりと、パンとおにぎりが入っていたビニール袋が音をたてた。

「腹減ったな……」

 体は正直だ。

 まひろが作った、あったかいご飯が食べたい。

 今浮かぶのは、それだけだった。


 何気なく見たスマートフォンの画面には、1645という時刻を表す数字と、未読のメッセージがあることを伝えてくれるマークがある。

 メッセージはおそらく、まひろからのものだろう。

「映画がなんとか言ってたけど……とてもそんな気分じゃないや……晩飯、どっかで食うかな」

「待ち合わせは映画館に六時だぞ。まだ間に合う」

 突然、隣から低い女の声がした。

 この声には聞き覚えがある。あの黒猫だ。

 横を見ると、いつからいたのか隣に女が腰掛けている。

 やっぱりだ。

 艷やかなストレートの長い黒髪に、シンプルなデザインの黒のロングコート。

 なんだってこんなところにいるんだ……そうか、俺を映画館に向かわせるつもりなのか。

「俺は行かない」

「私は君に、ミツキちゃんの父親になれとは言っていない。無理だろう、それは」

 黒猫女がにやりと笑って俺を見た。

 いきなりその話題かよ。

「一つの命を育てる覚悟は、そう簡単にできるものではないからね」

「……そうだよ……でも、あんたたちはミツキちゃんの願いを叶えるのが目的なんだろ?」

 それなのに、なんでそんな風に言うんだ?

「私たちは人の気持ちまでは変えることができない。そうなるように手助けはできてもね。私たちの目的はね、君にきっかけを与えることさ」

「きっかけ?」

「そう。ひとまず、話ができただろう? まひろさんと」

「ああ……」

「そうすることで、自分がなにを望み、それに対してパートナーであるまひろさんが、なにを望んでいるのかがわかっただろう?」

 確かにわかったけれど、問題は解決しない。

「俺は……まひろと別れたいんだ。そうすれば、あいつは母親になれる」

 なんとなく、自分は嘘つきだと思いながら俺の口から軽い言葉が漏れる。

「君が目を逸らしたいのは、理想から外れてしまった惨めな自分自身からだ」

 はあ?

 カアッと頭に血がのぼる。

「なっ……なんだと! 誰がみじ……」

 体が勝手に動いて、気づけばベンチから立ち上がっていた。

「兄に負けたくないと……親に認められたいと願って生きてきただろう? 君が生まれ育ってきた環境上、そう思うのもわからないでもないが、そろそろその基準を捨ててもいいんじゃないかな?」

 黒猫女は無表情で、そんな俺を下から見上げている。

「基準を……捨てる?」

 俺は一気に熱が冷めて、ぺたりとベンチに座り込んだ。

「実の親だろうが兄だろうが、所詮は君以外の人間。つまり他人だ。仮に今、君がまひろさんと別れたとしても、肝心の基準がこれまでと変わらないのなら、この先もずっと劣等感を抱いたままだよ」

「そんなの……大きなお世話だ」

 劣等感、という言葉が胸にずしりとくる。

 俺は黒猫女を直視できずに、真っ黒な川面を見た。

 お前に、俺の何がわかるっていうんだ。

「いらないものは捨てないと、ほんとうに大切なものを見失うよ。君が大切にしたいのは、親や兄に勝つことなのか。それともまひろさんと共に生きることなのか」

 ……そんなこと……急に言われてもよくわからない。

「俺は……どっちに転んでも、苦しいんだ」

「そうかもしれないね。しかし、同じ苦しいなら、クリアできた時にどちらがより幸せを感じるかを想像してごらん?」

「クリア……?」

 あいつらに勝つこと、まひろとこの先を生きること。

 どっちもできないだろ……俺にはその能力がないんだから。

「想像するだけでいいんだよ。仮に君に子ができたとしよう、その先は? 親に認めらる為に、兄に勝つ為に、君は自身の子になにを強いるだろうね?」

「強いる? まさか、そんなこと……」

 しない、とは言い切れないような。

「他人に勝ち負けの基準を合わせると、キリがなくなるということがわかるかな? まあ、今はよくわからないかもしれないが、これからそれをよき考えてごらん。次に、まひろさんと君が二人で子どもを育てるイメージをしてみよう」

 みようって……さっきから……言うのは簡単なんだよ!

「イメージ……できない」

 俺は自分の手を見つめながら、ボソリと言った。

「まあ、これもそうかもしれないね。自分の思い通りにならない、自我の塊のような我が子に手を焼くかもしれないね」

 自我の塊、か……

 俺の頭に、にこにこと笑うミツキちゃんが浮かんだ。

「未来のまひろは、ミツキちゃんを一人で育てたんだよな?」

「ああ、そうだよ。母親や兄姉きょうだいに助けられながらね」

「思い通りにならない子どもを……か」

 俺には歳下の兄弟がいないし、赤ん坊が大きくなっていく途中経過を知らない。

 学校で習ったかもしれないが、何一つ記憶にないし。

 だから、ほんとにイメージしかできないけど、俺だったらメンタルが崩壊しそうな気がした。

「子どもは素直な多面体だ。泣きわめき、わがままを言う事もあれば、笑い……そして、なにより成長する」

「成長……か……」

「なにもわからずに、泣く事でしか自己表現できなかった赤ん坊が、父親という存在をほしがったり、母親が隠している感情に気づいたりするようになる。そして自分なりに考え行動した結果が今だ」

「ミツキちゃんのこと、か……」

 俺が知っているのは、今の六歳のミツキちゃんだけだ。

「映画、まだ間に合うぞ。そうとうぎりぎりだけどな」

「……」

 俺は無言のままベンチから立ち上がり、近くに停めていた自転車に向かって走りだした。

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