第9話 異世界の宝石と女の子の為に神様になる

 長身の若い男。

 歳は二十代後半、といったところだろうか。

 だが、男が人間じゃないのはすぐにわかった。

 額に、ギョロリとした黄色い瞳がついているからだ。

 俺の体に緊張感が走る。

 これが、黒龍。

 あの額の目さえなければ、神秘的な美男子なのに。

 俺は視線を男の顔から移動させる。

 色白の肌に映える、真っ黒な髪。それは長く、足元まであった。祭壇の石みたいにつやつやと光っていて、見たことがないほど真っ直ぐだ。

 癖っ毛、茶色が特徴の国民のものとはまるで違う。

 すらりとした長身に、黒くて長いローブを着ている。

 間違いない、この人が……いや、人じゃないけど、黒龍だ。

「あ、あの……あなたが黒龍様、ですか?」

 俺の緊張はピークに達していた。

 喉がひっつくほどに乾いている。

「うん、そうだよ。君、連れてきてくれてありがとうね」

 黒龍は、なにやら口をもごもごさせながら、畏まっている神官に声をかけた。

 驚いた……黒龍は、見た目だけじゃなくて声まで若い男みたいだ。白龍のような、しゃがれ声じゃない。

 それに、この匂いはさっきの……そうか、あれは花の香りじゃなくて、黒龍が口に含んでいるものから漂ってくるんだ。

「あ、気づいた? いい匂いでしょ、これ?」

 黒龍はにんまりと笑った。

 ドキリと胸が高鳴る。

 今、思ったことを読まれた?

「これはね、あの子からの捧げ物なんだよ。健気な子でねぇ、この素敵な宝石を、もう何十個と私に捧げてくれているんだよ」

 黒龍はニコニコと嬉しそうに笑った。

「宝石、ですか?」

 いきなり話が飛んだな。

 まあ、それはともかく。

 この国で宝石と呼ばれるのは、研磨された美しい石でかなり高価なものだ。

 そんなものを、働いてもいない筈の子どもが何十個も黒龍に捧げるなんてありえない。

 そして、なによりこの香り。

 宝石は石だ。こんなに清々しくて甘い香りなんか、絶対にしない。

「ほらご覧、これさ」

 黒龍は握っていた手のひらを、すっと開いた。

 そこには、透明感のない白濁色の小さな石がある。

 見たことがない。

「これはなんという名前の宝石なんですか?」

「これはね、キャンディドロップという名前の菓子なんだよ」

 なんだ、菓子か。

 いやしかし、キャンディドロップなんて名前の菓子は聞いたことがないな。異国のものなんだろうか?

「甘くて、爽やかな香りがする、この宝石のように美しくて上品な香りと幸せな味をもたらしてくれるモノを、毎日私に捧げてくれる子がいるのだよ。異世界にね」

 ん? 異国……って言わなかったよな。今。

 い、せ、か、い。って言わなかったか? なんだ、ソレは?

「そうそう、特例の話だけれどね。君、私の代わりに神様になれる?」

 いせかい、の次は神様か!

 なれるわけないでしょうが!

「無理です」

「まあ、私はここを離れるわけにはいかないのだが、健気なその娘の願いを叶えてあげたくてね。どうにかできないものかと思案していたんだよ」

 ニコッ。

 いや、ニコッ、じゃないよ。無理なもんは無理だって。

「あ、あの、俺には無理なんで」

「君はなぜ、ここに来たんだい? 特例じゃないと無理だとわかっていても、どうしても叶えたい願いがあったから、ではないのかな?」

 黒龍の瞳がきれいな三日月を描く。

「くっ……」

 そうだった。俺は。

「俺は……昔の自分がしてしまったことが原因で、妻に逃げられたんです。反省して、謝っても許してもらえなかった……でも、それでも俺は、行方不明になった妻と、もう一度やり直したくて、ここに来たんです」

 不意に幼い頃の妻の笑顔が浮かんだ。

 よく泣きべそをかいていた、幼い俺の頼りない背中をバシバシ叩きながら。

『くよくよすんな、なんとかなるから!』

 まだあどけなさの残る可愛い妻は、力強い口調で言い、あっけらかんと笑っていた。

 それがどれほど心強かったか。

 ほんとうに、なんとかなるかもしれないと、涙も引っ込んだよ。

 そんな大事な記憶さえ、俺は見えなくなっていた。ほんとに、俺は大馬鹿だ。

 悔しくて、俺はぎゅっと唇を噛みしめた。

「男女の思念は、我のような竜種にはまったく理解できないものだが……はて、ふむ……そうか、子を授からなかったことが事の発端か」

「な、わ、わかるんですか、そんなこと!」

 にやにや笑う黒龍にズバリ言い当てられ、俺は途端に恥ずかしくなった。

「わかるんだよ、神だから」

「確かに、それが発端ではありましたけど! 俺は、家ですっかり偉そうになってしまって、妻がどれだけ大事な存在だったかを忘れていたんです。ほんとに、バカでした」

 俺は素直に思っていることを口にした。

 黒龍は少し真顔になる。

「うん、まあ、そうだね……それがわかっているなら、やはり君は適任なのだと思う」

 は? 適任?

「あの……なんの話ですか……」

「そりゃ、さっきの特例案件の話に決まってるじゃないか。ほら、私の代わりにあの娘の願いを叶えるっていうやつ」

「いや、あの……それはいくらなんでも、人間の俺にはちょっと難易度高すぎですよ。だってその娘、異世界の娘なんですよね? 無理ですよ」

 俺は先の黒龍の台詞を思い出していた。

 キャンディドロップとかいう菓子を黒龍に捧げていたという異世界の娘は、おそらく裏でこんなことになっているとは想像もしていないだろう。

 何を願っていたかは知らないが、単に祈りたかっただけで、実現したいだなんて期待すらしていなかったんじゃないか?

 それなら、別にそれをわざわざ叶えなくてもいいような気がする。

「大丈夫、必要な情報はすべて脳に強制的に送り込まれるし、肉体も向こう仕様になるし。だから、安心していいよ! こんなに素敵なものをもらっておいて、何もしないのはやはり気がひけるからね、良かった良かった!」

「え、いや、まだやるとは決めてないです! あの、少し考えてから、また来ますので」

 逃げなくちゃ。この状況から。

 俺の本能がそう告げていた。

「なにを言ってるのかな? 君とてどうしても叶えたい願いが叶うんだよ? 人助けもできて一石二鳥じゃないか。ほら、この娘だよ……可愛いだろう? ミツキ、というんだ」

 俺の脳裏に、見たことのない服装をした女の子の姿が映る。

 あ、ヤバい。可愛い。

 俺は自分の迷いが違う感情に移り変わってしまったのを感じ、焦った。だが、もう遅い気がする。

 女の子は小さな手を合わせて、必死になにかを祈っていた。

『パパをください』

 はっきりとした女の子特有の声が、柔らかく頭の中に響いた。

 パパをください、か……てことは、この娘の家にはママしかいないってことなのか?

 俺に、この娘の願いが叶えられるんだろうか……叶えてあげたいけれど……

『大丈夫、必要な情報はすべて脳に強制的に送り込まれるし』

 必要な情報って、めちゃくちゃたくさんあるんじゃないのか……俺、そんなに記憶力良くないのに。

 次第に闇色になっていく意識の中、俺には不安ばかりが渦巻いていた。

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