20 家が遠いとしても、なくなったとしても
亜紀が、青木に小日向のことを伝言して美術部作品展示室に戻ると、父と母が来ていた。
「いえいえ、ほんとに不器用で」
母が入江先生に、ワントーン高い声で話しているのが聞こえた。
「あ、白井さん」
入江先生が亜紀に気がついた。
「ここはいいから、お父さまとお母さまを案内してらっしゃい。吹奏楽部の演奏が、そろそろはじまるでしょ」
入江先生は、暗幕カーテンを亜紀から受け取った。
「ありがとうございます」
亜紀は言ったものの。
ちらりと母を見る。
微妙に、母は亜紀から視線を外してくる。そんな母を父は黙って見ている。
講堂へ向かって、3人は階段を降りて行った。
夏休みの一件以来、亜紀は家へは必要最低連絡事項しか連絡していない。
努めて携帯のライン機能を使うようにした。母も、必要最低連絡事項をラインで伝えてくるのみだった。
「落ち着いた良い文化祭だね」
父の声が裏返っている。たぶん、母と亜紀にはさまれて居心地悪いのだろう。
「亜紀、冬休みには帰ってくるの?」
なんと、母が話しかけてきた。
「帰る、よ」
(もしかの歩み寄り!)
「部屋の整理してね」
「大掃除。ん」
(どうにか、雪解け)
「——お母さんね。あのマンションは引き払って、お父さんのいる東京に引っ越そうと思うの」
(ちがったぁぁ~~)
亜紀は絶句した。
母を怒らせたら、家の自分の持ち物すべて捨てられるかもという妄想はした。
けど。
(丸ごと私の帰る家、捨てるんだ!)
驚いて振り向いた亜紀を見る母の顔は、どこか満足げだった。
口角が少し上がって、笑ってさえ見える。
「何、言ってるんだ。お母さん」
父も初耳だったみたいだ。目が泳いでいる。
それに母は、落ち着いた口調で返した。
「もう、
「いや、今の東京勤務がイレギュラーなんだ。また、そっちの部署に戻る確率高いんだよ」
吹奏楽を聴くどころではなくなってきた。
どうなるんだろう、うちは。
「家、帰れなくてもどうにかなるよ」
奥山は寮のベッドの上でヨガのポーズをとっていた。
亜紀は文化祭での母の爆弾発言を、自分の中だけで処理できなかった。
奥山のところへ来て吐き出した。
「親のいるところを家とすれば、自分の家、スイスだし」
「え、奥山部長、本当にアルプスの少女?」
「まじアルプス」
奥山は、机の上のスクラップブッキングの額を指差した。
『Dear Haru.(親愛なるハルへ)』と書かれた台紙に張られた写真には、日本ではない白い雪におおわれた山並みと湖が映っている。金髪や青い目やアラブの人の子供の真ん中に、奥山をちっちゃくした黒髪の少女がいた。
「母国での生活も体験するべしって両親の方針で、自分だけ、祖父母頼って中3のとき帰国して。ホームスティ感覚で、少しの間だけ
「はい」
「それ、本当に東京? 東京ナントカって、東京以外にあるやつじゃなく?」
「父の会社の最寄り駅は東京駅です。あ、でも単身寮から1時間半かけて通勤してるって言ってました」
「そこ、東京じゃない」
おそらく千葉か神奈川、そこまでは奥山は指摘しなかった。
「日本の学生は大学進学の時に親元離れる子が多いよね?
励ますように亜紀の両肩を、ぽんと、はたいてきた。
「奥山部長は家から離れて、さびしいとか、なかったんですか?」
ひょうひょうとして見える奥山だ。
「うーん。親がノマドみたいな体質の人だったからね。定住しなくて、さすらうみたいな。さみしがっている余裕がなかったかも。いきなり、知らないところへ突っ込まれちゃうようなシーンばかりでさぁ。今はスイスで、日本人向け観光ガイドとか、住まいの
亜紀の家庭も転勤族だが、奥山のところはスケールがちがっている。
両親とも会話ができていそうなところも、亜紀の家とはちがう。
「オーロラ寮で暮らしはじめて、自分のことだけ考えて、母や父のことを忘れている日があるんですよね」
亜紀は、そういうとき罪悪感があった。
「それこそ、独り立ちの準備じゃん。親のことなんて忘れてなんぼだ。白井、我がままになれ」
「あはは」
亜紀は奥山と話すと明るい気持ちになった。
でも、自分の心の中に、からっぽのコップがあるのもわかっていた。
小さい頃のことだ。
母といっしょにお風呂に入っていた。
「お母さん、こういうこと、できるんだよ~」
母は自分の足の指で亜紀の
「痛い、やめて」
身をよじる亜紀を母はおもしろがった。
(どうして?)
(どうして、おかあさんは、わたしのいやだってことをするの?)
(やめてって言うの、おもしろがるの?)
その頃から亜紀の心の中には、その小さな女の子がいて空のコップを抱えて泣いている。
(悲しかったんだね。ごめんね)
母が、そう言ってくれたなら。
コップの中身を、母に満たしてほしかった。
(自分が大人になれば、きっと、小さな女の子の涙は止まるはず)
ずっと亜紀は、そう思ってきた。
※〈ノマド〉 遊牧民 転じて放浪者
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