15  なつめ先生

「亜紀さーん」

 レースの日傘の女が手を振って、駅の南口で待つ亜紀に小走りに駆け寄ってきた。


「なつめ先生、お久しぶりです」

 亜紀は、ぺこりとお辞儀する。

 なつめ先生は、三原なつめという。亜紀が中学3年の時の副担任だった。美術部の顧問でもあった。

 今日、10時に会う約束を亜紀が取り付けたのだ。


「髪、のびたね」

 なつめ先生は日傘を亜紀に傾けた。亜紀の顔に日傘のレースが花模様を描く。

「カラオケ屋さんに行こうか」


 先生に誘導される生徒のまま、亜紀はついていった。カラオケに来たのは、はじめてだ。ビルの自動ドアをくぐるときから、ドキドキした。

 受付を済ませ、ドアの並ぶ廊下を歩くと、どこかの部屋から重低音が響いてくる。ふたりにしては広い部屋に通され、部屋の扉を閉じると外の音は聞こえなくなった。


「この間のクラス会も、ここに来たの」

 なつめ先生は壁際の長いソファの真ん中に座って、亜紀を手招きする。

「店員さんに、この人、どれだけカラオケ好きなんだと思われてるね、きっと」


「——昨日は夜遅くに電話して、すいませんでした」

 亜紀は、なつめ先生の隣に、ひとり分の間を開けて座った。


「ううん。夏休みには連絡してねって約束したでしょ。亜紀さん、何飲みたい?」

 カラフルなドリンクのメニュー表を、なつめ先生は差し出したきた。


「ジャスミンティーかな……」

 ソフトドリンクの種類が、あり過ぎる。

「ホットの」

 さっきまで冷たいものを飲みたかったのに、部屋はエアコンが効いていて汗は、さぁっと引いてしまった。


「先生もホットかなー。エアコンの温度、あげよう?」

 なつめ先生も同じらしく、設定温度を操作してくれた。

 あと、「おいしいよ」と、チヂミとフライドポテトを、壁にくっついた電話で注文してくれた。

 ついでに、なつめ先生が、どこかのスイッチを押したら、天井の小振りなミラーボールが、同じく天井付けのライト2台に照らされて、キラキラと、うす青い光を反射しながら回りはじめた。


「これ、映画で見たことがあります」

 亜紀は、わぁっと思わず天井を見上げた。


「もしかして」

 なつめ先生が右手を上げて、ポーズを決めた。そう言えば、今日のなつめ先生のコーディネートは偶然にも、映画のヒトと同じような白っぽいパンツスタイルだった。


「それです」

「だいぶ古い映画なのに知ってるの?」

「父が映画好きのせいで、けっこう観てます」


 あれは知ってる? あれは? と映画の話をしていたら、扉がノックされて、頼んだメニューがやってきた。


「あったかいうちに食べよ」

 なつめ先生は、ホットのゆず茶を頼んでいた。

 お昼には早かったけれど、チヂミから、いい匂いがして、亜紀は、くぅとお腹が鳴った。そういえば、朝、あまり食べていなかった。


「亜紀さんは歌、好きだっけ?」

 なつめ先生は、分厚い歌の本を手に取る。

「わたし、歌、下手で」

「え? 亜紀さん、絵も下手だって言って、あのレベルだよ。期待しちゃう」

「うわ。ほんとに下手です。お母さんにも言われて」


 小学校の時だったか、「♪つばさを、ください~」と、風呂場で歌っていたら、母に笑われた。


「私も母に歌、下手だって言われたな~」

 なつめ先生は、今度はテーブルの上に合った小さな機械に何やら打ち込みはじめた。

「絵も下手だって言われたことある。まぁ、事実だけど。美大受験で、現役の時は落ちているからね。自分は井の中のかわずでした」


「そうなんですか」

 亜紀は目を丸くした。

 完璧な大人だと思っていたなつめ先生が美大受験に落ちているのも驚いたが、お母さんみたいな人が他にもいるなんて。


「小学生の時、母の日の絵、書いたら、目じりのシワ描き過ぎって怒られた。私、小学生にしてリアル派だったね。亜紀さんは精神のリアル派かも。亜紀さんの自画像を見た時、そう感じた。亜紀さんの絵は未熟で繊細で大胆で、ココロをわしづかみにされる。亜紀さんの気持ちが全部、入ってる感じ」


「ほ、ほめて、いただいているんでしょうか」

「そうだよ。私は、これからも亜紀さんの絵が見たいな」

「美術部に入ったんです」

「うん、うん」

 なつめ先生は、山盛りのフライドポテトに手をのばした。

「で、話があったんじゃない?」


 そうだった。小日向の描いた絵をにされて、マグマが噴出する勢いで、亜紀は、なつめ先生に電話したのだった。


「……え、と。母が、わたしのカバンを勝手に開けて。友だちの描いてくれた絵をやぶって捨てたんです。今まで、自分の絵を捨てられたときは腹がたたなかったのに、仕方ないって納得できたのに、ものすごく、くやしくて」

「うん」

「すごく、すごく、くやしい。わたし、お母さんが——」

「ん?」

 聞き返された。


「……き、きらい、かも」

 亜紀の声は小さく、しりすぼみになった。


「そこは、きらい、って、はっきり言っていいんじゃないかな。亜紀さんには亜紀さんの世界があって、誰も踏み荒らす権利ない。大事だって思うものを壊されたら、怒っていいんじゃない」


「親のことがきらいって、わたし、ひねくれてますよね」

 亜紀は座った膝の上で、両手を、ぎゅうっと握っていた。後ろめたさで、いっぱいだった。


「亜紀さん、我慢強がまんづよいなぁ。でも、亜紀さんが我慢してるの、お母さん、わかってくれてるのかな? 亜紀さんが、我慢がまんすればするほど、お母さんは、亜紀さんには何を言ってもいいって甘えが、止まらなくなるんじゃない? 一生、子供をサンドバックにする母親は、いるから。親のサンドバックになっていい子供なんて、いて、いいわけない」


 三原なつめは白井亜紀しらいあきが小学校の時に、「もしかしたら」と考えた。

 中学3年生になった白井亜紀に、それとなく母親から離れる進学先を勧めた。

 杞憂かもしれなかった。ただ、白井亜紀が自分と同じなら——。

 母親だけが世界のルールのような場所から、連れ出したかった。


「先生、歌うね」

 テレビ画面に横文字のタイトルが出た。

「昔、あかつきほしの文化祭で先生が先輩と歌った、思い出の曲」


 軽快なイントロが流れ亜紀の静かな泣き声は、かき消された。

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