4 弱小美術部
洗たく物を共同乾燥室と個室に干していたら、18時になった。寮の夕食開始時間だ。
亜紀は3階から1階に降りて行った。食堂は1階の玄関入って、すぐの場所にある。
まず、厨房に面しているカウンターでトレイを取る。
主菜と副菜は、たいてい一皿に盛られてカウンターの奥に並んでいるのを、手を伸ばして自分でとる。汁物とご飯は厨房スタッフが、よそってくれる。
ご飯担当の厨房スタッフは亜紀と目が合うと、にっと笑った。
日本の人ではないみたいだ。「ごはん、
「
そう注文した亜紀に渡されたご飯は、どう見ても大盛りだ。
(遠慮してると思われているのかな)
それから、適当に席に着く。
6人ほどかけられるテーブルが10台ほど並んでいる食堂だ。寮生全員集まっても、席は余裕がある。
はじめて来た日に、亜紀は入り口に近いところに案内された。だから新参者の席は、ここだと思う。亜紀はテーブルにトレイを置いてから、音をたてないように椅子を引いた。
寮の初日、亜紀の側に座ったのは、舎監長のアグネス先生だった。
「今年度の高1の寮生は少ないの。やはり、共学になって女子生徒自体が少ないのですもの」
彼女は、ちょっと昔に
桐野先生を教えたと言うから、ちょっと昔なんだ。
「――共学になったときに女子寮不要説も出たのよね。合理化、というものね。でも、女子教育に生涯を捧げた創設者、シスター・マリア・エフゲニーヴナ・ヴォロノワに敬意を払い、女子寮は残されたの」
アグネス先生は、創設者のシスターの名をよどみなく言い切った。
「オーロラ寮を必要とする女子がいなくなるか、建物が限界を迎えるか、どちらかの日が来るまでは、この寮の
そうこうしているうちに、食堂に桐野先生が現れた。同じトレイを持っていても、ちがって見える。輝いている。
上座中央席に桐野先生は座った。
そして、両の手を軽く胸の前で合わせる。
皆もそうする。
亜紀もそうする。
「ここに用意された物を祝福し、私たちの心と体を支える
桐野先生の祈りに、「いただきます」と、寮生は唱和した。
「白井さん」
食事も終わる頃、亜紀の左に座った上級生が話しかけてきた。
入寮以来、亜紀の夕食の席の左は日替わりで、上級生か舎監先生が座る。新参者への配慮だ。
「高2の
奥山と名乗った女子は横に座っていながら、まっすぐに亜紀を見てきた。
彼女は桐野先生のあとに食堂にすべり込んできて、亜紀のそばで、黙々と食べていた。
エンジ色のジャージの上下を着ているが運動部ではない。
そのことは最初から亜紀にもわかった。
洗たくしても落ちていない絵の具が袖と胸に、がっつり、ついていたから。
「顧問の先生から聞いていたんだけど。全国区の絵画コンクールに入賞した子が、編入試験に受かったって」
中学2年の時に、亜紀は自画像を描いて賞をとった。そのことは、いくばくか、編入試験合格の足しになったのかもしれない。
女子の声が一段、機嫌の悪い猫のように低くなった。
「こっちは待ちわびているのに、どうして美術部に来ない?」
「ぶ、部活動紹介のオリエンテーション、
亜紀はうろたえた。〈ジャージ女子〉の圧がすごい。
圧がすごい。
「見、見なくても、ですかね」
流されたー。
そして、次の日。
6時限めが終わったときのことだ。
1年Cクラスがざわついた。
「
上級生が現れたからだ。
それが奥山晴香であることは、亜紀には声でわかった。
「は、はぃ!」
亜紀は席から、あわてて立ち上がった。
モーゼの海割りのごとく、教室前方入り口に立つ奥山と、教室、後ろ窓際の亜紀をつなぐ、ななめの線でクラスの空気が割れた。
「迎えに来た」
かなり距離あるのに奥山晴香の声は、よく通る。
「わ、わたし、これから掃除当番です」
「え?」
亜紀の声が聞こえなかったらしく、奥山晴香は小首をかしげた。
「白井さんは掃除当番で!」
亜紀の右ななめ前の青木が見かねて、くりかえした。
「白井さんは掃除当番で!」
「白井さんは掃除当番で!」
奥山のところまで、あと二人が伝達した。
Cクラスは連携力がすごかった。
「なら、あなた、白井とチェンジ」
奥山は最後に伝達してきた小島を、びっ、と、指差した。
「へっ」
小島が、ぴょくんと跳ね上がる。
「ごめんなさい、ご、ごめんなさい」
亜紀は急いで学校鞄をひっつかむと、誰かれかまわず、あやまりながら教室を出た。
それが、さっきのことだ。
晴天のグラウンドからテニス部の打音が反響している、美術実習室に亜紀はいた。
(うん。入部するなら、美術部かなって思ってたし)
美術部が部活動でつかっている、この教室は高等部校舎最上階4階のいちばん奥にある。たまに、〈チョモランマ〉とも呼ばれている。
そもそも、
それで、職員事務棟と中等部棟、高等部棟は1階分ずつの段差がある。そのうえ、半階分ずつの階段でぐるぐる回って行くから、慣れない者ほど、どの階にいるかわからなくなった。
「美術部部室にたどり着けなくて入部できなかった」という、言い訳まで成り立つ。
「このたび美術部に入部する、1年Cクラスの
奥山部長が、となりに立っている亜紀を紹介した。
「高等部副部長2年、
奥山の声に、ボリュームのある体の眼鏡女子が席から立ち上がって、かるく会釈してきた。
「お見知りおきを」
「中等部部長の3年、
「よろしくお願いします」
一文字にした口元が生真面目そうな女子だ。
「中等部1年、新入生の
「よろしくお願いします!」
ツインテールの小柄女子。
「同じく、1年、
「ょろ……、ぉ……」
男子は背は高いのに、うつむき加減で声もよく聞こえなかった。
「そして、私が今年度、部長を務めます奥山晴香。以上が美術部員です」
(ご、5人)
それは部室に入ったときから亜紀も、わかっていたことだったが。
「白井殿、今、部員、
副部長だと紹介された井上早智子が、じっと亜紀を見ていた。
(え、読心術、使える? この人)
亜紀は、ぱちぱちと必要以上に目をしばたいた。
「茶道部以外の文化部は、部員確保に難儀している。今年度、美術部が3名確保できたのは奇跡に近い」
それは、部長の押しの強さで? と亜紀は聞きそうになった。
奥山部長が忌々し気に吐いた。
「あの茶道部の、たらしの
(タラ
「
井上副部長が語り出した。
「この学院が共学になったのは、今の高1、まさに白井殿の代が中1のときであったよ」
♪べ、べんべん。
脳内に絵巻物の雲がたなびき、琵琶の音色が聞こえてくる。
「共学になった記念すべき年、男子一期生として、小日向氏は中等部に入学してきた。彼が新入生代表として挨拶を述べ、彼が茶道部に入部するやいなや、茶道部に女子生徒は殺到した。運動部と吹奏楽部はどうにか威信を保てたが、残る文化部は、なすすべなく部員減少し廃部、または同好会に格下げとなった。――これが今に語り継がれる〈
♪べ、べんべ、べん。
「あいつが在学する限り、茶道部に部員をとられる」
奥山は、女子高育ちとは思えぬ舌打ちをした。
「部員が5名以下になったところで同好会に格下げだ。ま、今年度は、どうにか
「はい! 人数少ない分、気楽に行きましょう」
すっと、女性がひとり、壁際から立ち上がった。
「今年も変わらず! 美術部顧問は、非常勤の
(いたんだ、先生)
亜紀は、気配のうすい顧問に恐れ入った。
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