デッサン!〈改稿版〉

ミコト楚良

1  新しい気持ちで

 6時限めの1年Cクラスの教室で、亜紀は、いちばん後ろの窓際の席に座っていた。日光が机に射すので、さっき、カーテンを引いて、さえぎったところだ。


(転校生(編入生)あるある、転校生(編入生)窓側の、いちばん後ろの席になりがち)


 リアルにそうだったので心の中で(おー)と、つぶやいた。

 ぎこちない自己紹介をして、後ろの席に着くまでの長かったこと。

 思わず、右手に右足、左手に左足歩行しかけて、クラスの失笑を誘ってしまった。


 しかし、高校生ともなると、いきなりの蔑視べっしとかはない。はたまた、これが、あかつきほし学院の評判が示すとおりのカトリック精神なのか。

 亜紀は、ほっとした。

 公立中学で自分は、うっすら浮いてしまっていたみたいだから。



「ここは公式を使ってぇ」

 白髪丸眼鏡の教諭、田辺がチョークで、カツカツと黒板に数式を書く。

 なかなかの悪筆。アルファベットのZなのか、数字の2なのか。判別がつかない。


 それで、今、亜紀の視界を右ななめ前の男子の背が占めている。

 黒板を見ようとすると、どうしても、その男子の背中が目に入る。


(きれーな肩の線)

 男子の紺色ブレザーの肩の線に、亜紀は目を細めた。

 左手に持った鉛筆が文字以外のものを描きたくなって、落ち着かなくなる。それは封印せねば。授業中に、それをやれば、成績はクラスの平均点以下という惨状が待っている。

 

「白井亜紀さん」そこへ、田辺に名指しされた。「この式、解いてみて」


(うぁあああ)

 声ならぬ声がわく。

 亜紀は、ふらつくように立ち上がった。


 高等部に編入して2週間めだ。

 わかっちゃいたが、授業の進度が早かった。

 編入試験の合格通知といっしょに、『春休みの課題 ~編入生向け~』のうすめの冊子が送られてきたが、それをやっても追いつかなかった。

 公立中学から私立中高一貫校に途中編入するということは、無謀だと誰もが言うところではある。


(だけど)

 いい加減な気持ちで、亜紀も編入を決心したのではない。

 誰も自分を知らない場所に行って、いちから、はじめてみたかった。

〈おとなしくて、何を考えているかわからない白井さん〉を変えたかった。


 亜紀は、うつろな表情で黒板にたどりついた。

(わたし、死ぬとわかって戦う)


 途中まで解いていくが、つまった。


「あぁ、惜しい。そこまでは、わかっているんだねぇ」

 田辺は、うっすら笑ってさえいる。


(こいつ、絶対、Sえすだ。絶対、Sえす

 亜紀は心で毒づいた。


「誰かー。続き、やれる者ー」

 田辺先生の声に男子が、すっと手を挙げた。

「お。青木。続き」


 たったっと大股で、その男子は、すぐ黒板のところまでやってきた。

 亜紀は小さくなって、三歩、黒板脇にずれて下を向いた。

「白井さん、下、向かない。解き方、見とけ」

 容赦なく、田辺の指摘が入る。


「あれ」

 青木と呼ばれた男子のチョークを持つ右手が止まった。

「まっじ。わかんなくなった」


 教室中が爆笑した。


「小島、助けて」

 その声に、「おっしゃー」と、もうひとり男子が、黒板までやってきた。

 ぴょんぴょん飛び跳ねてくるような歩き方に、クラスの笑いが止まらない。


 小島と呼ばれた男子は、ささっと式を解いていった。


「はい。ご名答」

 田辺が、にっこり笑った。

「——このクラス、私大志望か文系希望、多そうだけど、このくらいの式、解けないと大学、入ってから苦労するからね。特に、中等部からの子が、今、この式、解けないんじゃ危機感、持ってね」


 クラスが、しんと静まり返った。


 キンコーン。

 そして、やっと、6時限め終わりのチャイムが鳴った。

「次の時間までにプリントやってくるように~」

 田辺先生は、上履きサンダルをスコスコ引きずって教室を出て行った。

 

(あぁぁぁ)

 亜紀は黒板脇の壁に背を預け、無力化した。もはや、自分の席に帰る気力がなかった。


「白井さんさー。ぼくら編入生仲間だね」

 数式を解いてみせた男子が声をかけてきた。

「授業の進度、早いから大変だよね」

 でも、この男子は数式を、すらすら解いた。

 亜紀は、自分のできなさ加減に打ちのめされていた。


「どんまい。途中まで解けてたじゃん」

 横から背の高い男子が話しかけてきた。

 亜紀が見上げれば、〈右ななめ前の男子〉だった。やっぱり、前から見ても肩の線が、うつくしい。

「この時期の田辺って、編入生いじりがすごいって評判だから。中等部からの中だるみ対策もかねてんだよ。しかし、小島。君、編入生なのに、なぜに解いた」

 〈右斜め前の男子〉は、〈ぴょんぴょん男子〉に話を向けた。


(小島……)

 今年の高等部の編入生は、亜紀を含めて3人だ。

 小島という男子は同じ編入生なのに、内部進学者に、もう親し気に呼び捨てされている。亜紀は衝撃を受けた。


「兄貴、いるせいかな。この手の問題集、けっこう家にあって。数学、好きかも」

「このクラス、理系じゃないぞ」

「え、そーなん」

「高1の時点じゃ、ざっくりしたクラス分けだけど。完全にトップはAクラス。次はBクラス。Cは、うぞーむぞークラスと呼ぶ者もいる」


有象無象うぞうむぞう……」

 亜紀は自虐的に、つぶやいてしまった。


「高等部編入生は、たいていCクラスからだね。ホームルームと、いくつかの授業はいっしょに受けるけど。小島は、そのうち数学はAかBのやつらと同じ授業、受けるんじゃない? で、さぁ」

 右ななめ前男子は、亜紀に向き直った。ひざを折って顔の位置を同じにしてくる。小学生に話しかける、おにいさんみたいな仕草だ。

「あのさ、オレのこと、授業中とか見てなかった? 休憩時間も。やたら、君の視線、感じるんだけど」


「え?」

 亜紀は、すっとんきょうな声をあげてしまった。

「みみみ見」

(見てたかも)

 恥ずかしさに、ぼっと上気した。


「え? オレ、恋の瞬間に立ち会ってんの?」

 小島が、うれしそうに身体からだをくねらせる。


「ねー」

 〈右ななめ前男子〉は、亜紀に接近した。

(うわぁ)

 亜紀は必要以上にあせる。


 そのときだ。

美馬みま~」

 亜紀の視界に入っていなかった別の男子が、〈右ななめ前男子〉の背中に、おおいかぶさってきた。


(わ)

 亜紀は、突然現れた男子に目が釘付けになった。きゃしゃではあるが、しなやかな感じ。その、やさし気な虹色のオーラ。

「Aクラスの」「小日向こひなた君」まわりの女子が、こしょこしょと、さえずった。


「あ。編入生だよねー。よろしくー」

 亜紀と小島を見て、その男子は、ふんわり笑みを浮かべた。

「小さな島に武士ぶしと書いて小島武士こじまたけし君。よろしくっ」

 小島に両手を差し出す。

「こっちこそ!」

 小島も同じテンションを返す。物おじしない性格のようだ。亜紀には、うらやましい限りだ。


「それから」

 男子は亜紀に向き直った。 

「白いに井戸の、亜熱帯の、紀元前のと書く白井亜紀しらいあきさん。よろしくっ」

「はっ……」

 アイコンタクト取ってくるタイプの男子だ。亜紀も見つめ返してしまって、数秒、目が離せなくなる。

(うすめの虹彩。きれい)


「ねー。中学のとき、白亜紀はくあきって呼ばれてなかった?」

「は、はくあきぃ?」

 亜紀の脳みそが追いついていかない。


「正しくは、〈白亜紀〉の〈亜〉は粘土質な土、すなわち石灰岩を意味する別な漢字だけどね」

「いや、小日向こひなた。おまえのウンチク、ここでいらねーから」

 青木が割り込んできた。


「〈白亜紀はくあき〉って呼び名にしない?」

 男子は推してきた。

「何、ハラスメントしてんだよ。白井さん、かたまってるだろ」

「……あきらめられないなぁ。Aクラスにジュラっているじゃないか。Bクラスにさとるもいるし。ジュラ紀、白亜紀はくあき暁新世ぎょうしんせいとそろう、この奇跡を見逃せない」

 なんだか知らないうちに、チームを組ませられる方向のようだ。


(ち、地質時代好き?) 


「それよりさ。白井さん。オレのこと見てたかって質問の答えは?」

 青木、〈右ななめ前男子〉は話題を戻してきた。

「へー?」

 小日向が瞳を輝かせる。

「それそれ」

 気がつくと小島だけでなく、クラスメイト何人かに囲まれていた。


「す、ス、」

 亜紀は、どもりながらも懸命になった。

 何とか会話を続けるべきだ。せっかく、編入してきたんだし。

 〈おとなしい、何を考えているかわからない白井さん〉から脱却するために、自分は、ここに来たんだ。

「スキ」


「好き? 美馬みまのことが?」

 小日向が身を乗り出してきた。

 亜紀は、できるだけ誠実に答えようとしか思っていなかった。


鎖骨さこつ、手首、アキレスけんが、スキですっ」


「さこ」「サコ」「鎖骨さこっ

 青木、小島、小日向、男子3人が一瞬、固まった。

 はじかれたように笑い出したのは、〈虹色男子〉の小日向だった。

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