第41話 出立
遠征の話を知ってからもレグデンバーに会えずに数日が過ぎた。
食堂に訪れる第二騎士団員の数は徐々に戻りつつあるが、カッツェとレグデンバーの二人は姿を現さない。そんな日々にやきもきしながら終業を迎えたカレンが更衣室を出て職員寮に戻ろうとしたとき、その赤髪を視界に捉えた。
「よぉ、カレン」
「カッツェ団長! お久しぶりです」
食事時を外した食堂付近は人影のないものだが、いつ現れたのか、腕組みをして壁にもたれたカッツェがそこにいた。カレンの挨拶に片手をひょいと上げると、壁から背を離してこちらにやってくる。
「仕事は終わったのか?」
「はい」
「じゃあ少し付き合え。まぁ歩きながら話す程度だ」
有無を言わさぬ強引な取り付けであったが断る理由はない。むしろ知りたいことばかりのカレンは即座に頷いた。
カッツェが職員たちのために開かれた出入り口へと足を向けるのでカレンも付いていく。レグデンバーより巨躯であるにも関わらず、意外にも穏やかな足音と速度だ。
「出立は二日後。ドノヴァも選出された」
唐突に切り出された言葉にどくりと脈打つ。何が、と尋ねるまでもない。
薄々そうではないかと予想はしていたけれど、否定したい現実を突き付けられると頭は真っ白になってしまうものだ。恐る恐る横を見上げるとカッツェの瞳には気遣わしい色が浮かんでいた。
「まぁ驚くのも無理ないな」
「あの、遠征の理由はお聞きしても大丈夫ですか?」
「あぁ。端的に言うなら要人の護衛だ。隣国のお偉方を迎えに行って連れてくるってだけの話だが、それなりのお偉いさんってことで副団長のドノヴァも駆り出された」
「皆さんに危険が及ぶ可能性はありますか?」
「襲撃をかける馬鹿でもいない限り、問題ない」
心から安堵の息を吐く。騎士という職業柄、危険は付き物だとしても安全であるに越したことはないのだから。
「皆さん、お忙しそうですね」
「急なことで経路や物資を確保するのに必死でな。あちこち走り回っていて食事に戻る余裕すらない」
「そうだったのですか……」
事もなげにカッツェは言う。カレンにとっては初めて間近に見る遠征だが、彼らにすれば数ある任務のうちのひとつに過ぎないのかもしれない。そうは言ってもよく食べる彼らの食事風景を見られないことに物寂しさを感じてしまうのだけれど。
「とは言え、もう明後日には出立だから大分落ち着いてはきた。ただな」
不自然に途切れた言葉を不審に思い、カッツェの様子を窺うとにやりと口角を上げている。
「発ってしまえばこちらに戻ってくるのは十日後だ。任務の舵取りを任されているせいもあってか、誰かの機嫌が悪くてな」
ぱちぱちと目を瞬かせて考える。舵取りを任されるほどの人物と機嫌の悪い誰かがカレンの中では結び付かない。
「カレン、二日後の朝に見送りに来られるか?」
「えっ?」
間抜けな声を上げてしまい、慌てて口元を手で覆う。カッツェの愉快げな表情は変わらない。
「お見送り出来るのですか?」
「まぁ普通は家族なり恋人なりが来るもんだが、独り身連中には無縁だろ? ドノヴァを気持ち良く送り出してやってくれ」
「レグデンバー副団長を……」
カッツェは目を眇めて笑っているが、カレンの心は葛藤していた。
偶然とは言え、彼に縁談が浮上している事実を知ってしまった今、その相手を差し置いて会いに行っても良いのだろうか。
「部外者の私が行ってもご迷惑に」
「なるわけないだろ」
言い終わる前に否定されてしまった。
「俺がお前に頼むって手もある。しかし自発的に来てくれた方が喜ばしいな」
(お戻りになるのは出立から十日後。今会えていない期間よりも、もっと長い……)
縁談が進んで気安く話せなくなる可能性だってある。だとしたら。
「お時間を教えていただけますか? 伺います」
決意を固めた返答にカッツェが満足げに微笑む。
時間を聞き出したカレンは挨拶もそこそこに急いで職員寮へと駆け戻った。
遠征の出立に間に合うよう、まだ仕上がっていない刺繍に取り組むために。
◇◇◆◇◇
まだ早朝だというのに王城前広場は熱気と喧騒に包まれていた。遠征に出る騎士だけではない。支度を手伝う騎士たち、見送りの人々、軍馬の群れと輸送用馬車が広場を埋め尽くしている。
地を鳴らす馬の蹄が幾重にも重なって空気を震わせる中、カレンは人混みに紛れていた。場違いな雰囲気に尻込みながらも視線を巡らせる。
(こんなに人が多いなんて)
選出されたのは二十名と聞いていたが、この場には五倍近くの人々がいるのではないだろうか。特に騎士たちは第二騎士団だけに留まらず、他の団の制服も見受けられる。彼らは馬車への荷積みや装備の確認に精を出している。
(国の代表として請け負われている任務ですものね)
食堂では優しく陽気に振る舞ってくれる騎士たちに尊敬の眼差しを向けながら目当ての人を探す。見慣れた深緑の制服に黒の肩マントを装着した騎士がひとかたまりになっているのを見つけて、カレンは小走りで駆け寄った。
「あっ、カレンさんがいる」
「本当だ、おはよう」
「おはようございます、皆さん。早朝からお疲れ様です」
声を掛けるよりも先にカレンの方が見つけられてしまった。これから数日の行軍を控えている割には皆朗らかな雰囲気を漂わせており、過酷な任務を思わせないことに少しだけ安堵する。
「カレンさんも手伝いに来てくれたんですか?」
「いえ、お見送りをさせていただきたくて。その、レグデンバー副団長はどちらにいらっしゃいますか?」
そう答えると周囲の騎士たちが一斉に「あぁ……」と声を漏らした。
「副団長ならあっちの荷物の側にいるよ」
「ありがとうございます。皆さん、どうかお気を付けて」
任務前の大事な時間を邪魔したことを詫びて教えられた方へと足を向ける。背後で「副団長ずるくないか?」と呟く声がしたが、カレンにはそれどころではなかった。
大柄な騎士たちに埋もれるようにしてレグデンバーの姿を探す。髪が乱れないように気を配りながら周囲を見回して、ようやくその後ろ姿をカレンは捉えた。
「レグデンバー副団長!」
書類らしきものに目を落としていたレグデンバーはカレンの呼び掛けにピクリと肩を揺らした。しかし振り向くことも顔を上げることもしない。その態度に不安を覚えつつも、もう一度話し掛けてみる。
「レグデンバー副団長。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
弱気になってしまい、控えめの声になる。しかし今度こそは届いたらしい。勢いよく振り返ったレグデンバーの肩マントがふわりと空気を孕んで揺れた。
「カレンさん?」
「はい、おはようございます」
「おはようございます……何故、こちらに?」
藍色の瞳を驚きに
「カッツェ団長にお見送りが出来ると教えていただきまして」
「レオ……団長に。そうでしたか」
「出立前のお忙しいところを申し訳ございません」
「とんでもありません。空耳かと思ってしまいましたよ」
にこりと浮かべた笑顔は早朝の清涼な空気に相応しい。数日会えなかっただけだというのに、その微笑がカレンをひどく安心させた。
普段よりも煌びやかな装飾が施された制服と額を曝け出すように整えられたチョコレート色の髪が、彼がこれから旅立っていくという事実をまざまざと思い知らせてくる。
「任務のこともカッツェ団長からお聞きしました。隣国に向かわれるのですね」
「えぇ」
手にしていた紙を折り畳んでポケットに仕舞うとレグデンバーは居住まいを正す。雑踏の中を二人がしっかりと向き合った。
「しばらく王都を離れます。私の口から直接お伝え出来ずにすみませんでした」
「いえ、支度に奔走されていたとも伺っていますから。実は、レグデンバー副団長にお渡ししたいものがありまして」
「私に?」
「はい、ご迷惑でなければ」
手提げの鞄から紙包みを抜き取る。
急ぎのため、購入したときのままの包装紙だ。気持ちが伝わるように、と願いを込めて両手に載せたそれをレグデンバーに差し出した。
「開けてみても?」
「はい」
包装紙に見覚えがあるらしく、不思議そうな面持ちで包みを開き始める。慎重に動く長い指をカレンは早まる鼓動で見守った。
ハンカチを掴み上げたレグデンバーの手がぴたりと止まる。藍色の瞳が
「これは……」
そう言いながら、やけにゆっくりとハンカチを開く。レグデンバーの視線がカレンの刺した糸の軌道を描くように動いていくのがわかった。
「先日のお礼と日頃のお礼を兼ねて刺した刺繍です。大層なものではないのですけれど、受け取っていただければ嬉しいです」
名残惜しそうに目線を外したレグデンバーがハンカチの表をこちらに向ける。
四角の布地の一角に羽ばたくのは銀糸の鷲、四方の縁を這う蔦は真白の糸。陽光を反射してきらきらと瞬いている。
「カレンさん、この模様は……」
「封蝋の刻印を参考にしました」
「そう、ですか」
吐息混じりの返答と共にレグデンバーは再び手元に視線を落とす。睫毛に縁取られた瞳が思いの外に真剣で、何かやらかしてしまったのかと不安が
しかし次の瞬間、瞼を下ろしたレグデンバーがその額にハンカチを押し当てたので、別の意味で何事かと焦ってしまった。
「嬉しいです。とても」
万感の思いを込めたような声だった。
ややあって長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。ハンカチを胸元に抱え込み、目元を仄かに染めて見下ろす眼差しは今までで一番熱い。
「ありがとう、大切にします」
「はい」
喜んでもらえた。そう実感した瞬間に体温が上昇した気がした。
彼の態度と表情が言葉に偽りないことを顕著に物語っている。その事実がただ嬉しくてカレンも笑み崩れる。気持ちを受け取ってもらえることがこんなにも喜びで身体中を満たすなんて知らなかった。
「ドノヴァ、時間だ」
不意に割り込んだのはカッツェの声だった。
いつの間にかすぐ傍にまで来ていた彼は事態が事態であるためか、平素よりも真面目な顔つきをしている。
「邪魔をして悪いが、そろそろ隊列を組んでくれ。
「えぇ、わかりました」
「カレンもわざわざ早くからすまんな」
「こちらこそ貴重なお時間を割いていただいて申し訳ございません」
「いや、お前のお陰でご機嫌取りに成功したんだ。感謝してる」
にんまりと笑うカッツェを見てレグデンバーが「そういうことですか」と呆れた声で呟いた。
「ですが私もお気遣いに感謝しますよ、団長。この上なく幸せな気持ちで出立出来ます」
丁寧に折り畳んだハンカチを胸ポケットに仕舞ったレグデンバーもどこか悪戯めいた笑みでそう返す。しかし即座に真剣な顔つきでカレンに視線を戻した。
「慌ただしくてすみません。ここでお別れになってしまいますが、どうか気を付けてお帰り下さい」
「はい。レグデンバー副団長もどうかお気を付けて」
これ以上長居しては迷惑だろうと察し、軽く会釈をして立ち去ることにした。元来た道を引き返すために振り返ったカレンだったが、掌に唐突な温もりが訪れる。
「待って、カレンさん」
「えっ」
驚きで足を止めたカレンは掴む手を確認し、それがレグデンバーのものであることを認識して心臓を弾ませる。
「気付かずにすみません。リボン、とてもお似合いです」
「あ……」
自由な方の手で後頭部に触れる。一纏めにした髪と一緒に揺れているのは、ほんのり黄味がかったレースのリボン。紫黒の髪を柔らかく透かすそれを勇気付けに結んできていたのだ。
「次はゆっくりと見せて下さい」
「は、はい」
「ありがとう、出る前にあなたの顔を見られて良かった」
カレンが感じていたことを彼がそのまま言葉にする。
繋がる指先に力を込めたのは、どちらが先だったのだろうか。
「無事のお戻りをお待ちしています」
「えぇ、必ず」
そうしてするりと熱が離れていく。
今度こそカレンはその場を走り去った。
隊列を組んだ騎馬隊が足並みを揃えて歩き出す。
見送りの歓声が沸く中、堂々たる態度で先陣を切るレグデンバーを人垣の後方からそっと見守る。
無事に帰ってきますように。
ただそれだけを願って。
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