第40話 ふたつの報
月明かりの差し込む自室で目を閉じる。
混乱した頭は一日の出来事を次々と脳裏に映し出し、また耳朶の奥に彼、彼女らの声を蘇らせていく。
彼に贈る刺繍、そのモチーフを決めたいのに。
巡っていくのは心を掻き乱す場面ばかり。
ごろりと寝台で寝返ってもなかなか良案は浮かばない。カレンはそんな夜を幾日か過ごすことになった。
◇◇◆◇◇
「遠征?」
「そうらしいの。私も聞きかじっただけだから詳しくはわからないんだけど」
久しぶりにソフィアと昼当番が重なった朝、食堂隣接の更衣室で彼女が切り出した話題は初めて耳にするものだった。室内に誰もいないことを確認し、その上で声を潜めた親友が囁く。
「
「そう聞くと任務のお話のようね」
「でしょう? でもそんなお触れは出ていないし、極秘の任務なのかしら」
すでに本人に明かされているためか、第二騎士団員がソフィアの前に姿を現すのはよくある光景になっているようだ。そんな彼女がミラベルトの屋敷で彼本人の口から聞いた『遠征』という言葉にはなかなかの信憑性がある。
しかしカレンが王都にやって来てから騎士団が遠征に発つなどという場面に遭遇したことは一度もない。争いごとが起こった報もなく、遠征という実態の知れないものに今ひとつピンと来なかった。
現実味のないそれが事実だと判明したのは間もなくのこと。
ソフィアと共に食堂に入り、配膳前の掃除に取り組んでいると、まだ食事も出来ていない時分に扉を潜る者が現れた。花を咲かせたような赤い髪がよく目立っている。
「忙しいところをすまん、料理長はいるか?」
カッツェがカウンターの奥に声を掛けると、手を止めた料理長が足早にやって来た。
「はい、何用でございましょう」
「急な話だが近日第二騎士団の遠征が決まった。総勢二十名ほどが出る予定だ」
「おお、それはそれはご苦労様でございます」
「遠征期間中の余剰食材をこちらで買い取らせてもらいたい。構わないか?」
「えぇえぇ、もちろんですとも。調理が必要でしたら人手を手配いたしましょう」
「感謝する。正確な日時はまた知らせを寄越すから詳細はそいつと詰めてくれ」
カレンとソフィアはこっそり目で合図を交わす。第二騎士団に遠征が課せられていること、それが極秘ではないのだと互いに確認するように。
端的に用件を伝え終えるとカッツェは踵を返す。その際にばっちりと視線が噛み合った。
「おはようございます」
「おう」
カレンとソフィアが挨拶すると片手をひらりと翻して去っていく。彼にしては珍しく余談なども挟まない颯爽とした去り様だった。
そんなカッツェとすれ違うようにして一人の文官が出入り口から顔を覗かせた。
「すまない、そこの君」
「はい、ご用でしょうか?」
手近にいたカレンが呼び止められた。
「昼食の配達を依頼出来るかな? 第五執務室に二人分」
「はい、承ります。お時間のご指定はございますか?」
「特にないよ。じゃあお願いするね」
こちらもまた端的に済ませると早々に立ち去っていく。カレンは受けた依頼を忘れないようにカウンターのメモに書き残し、再び掃除に戻る。
食堂内に野菜を炒める匂いが漂い始め、また今日も忙しくなるとカレンの気を引き締めさせた。
◇◆◇
「ねぇソフィア、そろそろ配達に行ってくるわね」
見渡した食堂内の人影がまばらであることを確認してカレンはそう切り出した。
「わかった。こちらは任せてちょうだい」
「ありがとう、お願いね」
頼まれた通り、二人分の食事をバスケットに詰めて食堂を出る。顔見知りの騎士や文官たちと挨拶を交わしながら回廊を進むカレンは、あることに気付いた。
(今日は第二騎士団の方が少ないわ)
彼らの象徴でもある深緑の制服をあまり見掛けない。カッツェが急な話だと言っていた遠征と関係があるのだろうか。
先日出掛けたあの日以降、レグデンバーとは顔を合わせていない。冷静に対面出来るかはわからないけれど、彼に贈る刺繍の図案を決めるきっかけになれば、とひと目でも会いたい気持ちがあった。しかし第二騎士団全体が立て込んでいるのなら顔を合わせることさえも難しそうだ。
「お待たせいたしました。ご依頼を受けて昼食の配達に参りました」
第五執務室への配達をつつがなく終えて、元来た道を戻る。頭の中では聞き馴染みのない遠征の実態がずっと気に掛かっていた。
かつて合同訓練で武器を振るう騎士たちを目にしたが、あくまで演舞であって実際の戦闘とは別物だった。今回の遠征が実戦の伴うもので、もし見知った騎士たちの身に危険を及ぼすものだとしたら。そんな想像が膨らんでしまう。
(ぼんやりしている場合じゃないわ)
前方から貴族らしい男性たちが歩いてくるのに気付いて壁際に移動する。そのまま頭を下げてやり過ごすカレンの耳が男性らの話し声を拾ってしまった。
「随分とご機嫌がよろしいですね。何か良いことでも?」
「愚息の縁談がまとまりそうでね、執務中だというのに先方と話が盛り上がってしまったよ」
「おぉ、騎士団のご子息ですか」
「長らく身を固めずにいたものだから、ようやくといったところだ」
「それはそれは、おめでとうございます」
「ありがとう。また改めて披露の場を設けるから君も顔を出してくれたまえ」
「もちろん。レグデンバー侯爵ご自慢のご子息のことですから喜んで」
カツカツと小気味良い足音が連なって通り過ぎていく。けれどもカレンの耳には最後に聞こえた名だけが残響する。
はっと頭を上げたカレンは遠ざかる後ろ姿を急いで確認した。思い浮かぶあの人より背丈も体格も小柄で、けれど見慣れたチョコレート色の髪を持つその男性をカレンは知っている。
紛れもなくレグデンバーの父だった。
(今のお話って……)
信じがたい侯爵の言葉にカレンは益々混乱する。
噛み合ったかに思われた歯車が少しずつ少しずつ狂いを見せるような、釈然としない気持ち悪さ。
その日、食堂にレグデンバーは現れなかった。
◇◆◇
ランプの灯りに照らされたテーブルにハンカチを広げた。レグデンバーへ贈るためにと購入した、彼の瞳を思わせる
(何か……)
参考になるものはないかと巡らせた視線がテーブルの引き出しに止まる。そう言えば、と開けた引き出しからレグデンバーの自筆の手紙を取り出した。
(騎士爵をお持ちになっていると仰っていたわ。だとしたらこれはレグデンバー侯爵家の紋ではなく、レグデンバー副団長ご自身の紋になるのかしら)
指先で封筒を撫でながら記憶を掘り起こす。
かつて家庭教師から学んだ自国の歴史。国を支える主要な貴族家には紋に花を刻むことが許された、と教わった。
(あぁ……だからソフィアは薔薇を選んだのね)
彼女が父と祖父のために刺した刺繍を思い出す。ポーリアム家の家紋に薔薇が使われているだろうことに今更思い至った。
(きっとレグデンバー侯爵家も紋に花をお使いになっているはずだわ)
であれば、やはりこの刻印はレグデンバー個人のものと考えられる。再びハンカチに目を移した。
濃藍に羽ばたく鷲を想像する。縁に沿って蔦を這わせようか。
「お渡し出来るかしら……」
ぽつりと声に出して不安を吐き出した。
この数日の間に顔を合わせていない現状に加え、偶然聞いてしまったレグデンバー侯爵の言葉がカレンの心を後ろ向きにさせている。
(私に渡す資格はあるの?)
縁談がまとまりそうだ、と言っていた。
貴族の縁談が家同士の繋がりを重要視することはよく理解している。特に高位の貴族家であればその意向は強まるだろう。
レグデンバーの言葉を疑うつもりはない。しかしドノヴァ・レグデンバー個人ではなく、侯爵家子息としての立場を求められたらどうなるのだろうか。
彼の意思など関係なく、レグデンバー侯爵の判断が優先されてしまったら。
(……いえ、そうじゃないわ)
ゆるりと首を振る。
再度引き出しを開ける。手紙が収まっていた場所のすぐ隣には包装紙に包まれたままのリボンを仕舞っている。
(お礼に渡すと決めたんだもの)
渡さないという選択肢はない。事態がどんな方向に動こうとも感謝の気持ちを形にする。そこに資格など必要ではない。
いつ会えるかわからない。縁談の真偽もわからない。だからこそ待ち受けている事態に左右されないためにも、一刻も早く思いを形にしたい。
引き出しから紙とペンを取り出す。図案を考えるための長い夜が始まった。
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