第39話 真意

 緩やかな水流が夕刻特有の柔らかい陽光をきらきらと煌めかせ、穏やかな水音と相まって清涼な空気を生み出している。

 レグデンバーに連れられてやって来た噴水広場の一画、点在しているベンチのひとつに二人は隣り合って腰掛けていた。


「お恥ずかしいところをお見せしてしまって申し訳ございませんでした」


 幸いにも周囲に人影はなく、落ち着いて話が出来る。深呼吸で心を鎮めたカレンは頭を下げて謝罪した。

 過去に一度似た場面を見られているとは言え、あのような会話は公の場で交わすものではない。しかも今回はレグデンバーまで巻き込んでしまった。冷静になればなるほど罪悪感が膨らんでいく。


「いえ、私のことはお気になさらず。それよりもカレンさんは大丈夫ですか?」

「……何だか複雑な気分です」


 職員寮を出る前は今日一日どう振る舞えば、と一抹の不安があった。

 初めて味わうケーキに驚いたり、彼の話に興味を惹かれたり、目新しい手芸用品に興奮したり、贈るつもりの刺繍に頭を悩ませたり。

 目まぐるしく心境は移り変わったが、どの瞬間も心地良い時間を過ごせていたと思う。


 そんな中、突如イヴリンとデメリに再会した。

 彼女らの自分本位な企みには憤りを覚えたし、失望もした。そこまで恨まれているのかと心に暗い影も落ちた。

 しかしこれまでなら黙って口を噤んでいたカレンも、今日は自らの意思をはっきり示すことが出来た。

 自分自身の人生を歩む決意をした親友の姿を見たから。そしてレグデンバーが傍らに立っていてくれたから。


「がっかりした気持ちがないと言えば嘘になりますが……でも、色々と吹っ切れました」

「間が悪いお誘いをしてしまいましたね」

「いえ、逆です! 今日あの方たちと会えて良かったと思うんです」


 やや距離を空けて座るレグデンバーは先程の毅然とした態度とは裏腹に申し訳なさそうな表情をしている。とんでもないと言わんばかりにカレンは首を横に振った。


「どこかで変わらなければいけない、と以前お話ししたと思います。でも私一人ではろくに言い返すことも出来なかったのでないかと感じていて」


 一方的に話を進めようとするイヴリンに言いくるめられていた可能性は大いにある。もしくは話の通じなさにカレンが反論を諦めていたかもしれない。


「ですから、レグデンバー副団長が隣にいて下さって本当に心強かったです」


 力強く言い切るとレグデンバーは微かな笑みを浮かべた。


「カレンさんが心の内に溜め込んでこられたものを吐露出来れば、と状況を見守っていました。しかしあの方たちの身勝手な言い分を自身の立場から看過することは出来ませんでした。差し出がましくあったのではないかと反省しています」

「そんな反省だなんて……あの、騎士団が介入するというお話は実際に可能なことなのですか?」

「えぇ、脅しで述べたわけではありません。カレンさんに至っては修道院の働きかけで提出した離籍を国が認めているわけですから、あなたの本意ではない接触は不当な行いとして我々が差し止められます」


 つくづく騎士の職務に関して疎かったのだ、と思い知らされた。


「前回の遭遇時に手助け出来れば良かったのですが、あのときは色々と秘匿していた時期ですから……一人でお辛かったでしょう」


 以前母だった人と再会したとき。

 第二騎士団がソフィアの護衛を引き受けていることは知らなかったし、当然カレンの事情がレグデンバーやカッツェに流れていることを知る由もなかった。


「いえ、あのときも助けていただいて、とても助かりました。ただ……」

「ただ?」


 言ってしまってもいいだろうか。

 ふんわり吹いた優しい風が二人の間を流れていく。レグデンバーの瞳がカレンの紫黒色の前髪が揺れる様を穏やかに見つめている。

 少しだけ勇気を振り絞ることにした。


「あの方の言い分をお聞きになってどう思われてしまうのだろうと、そちらの方が不安でした。王城でお勤めするようになって築いてきた皆さんとの関係が崩れていくような気がしたんです」


 彼が頷くのを見て更に続ける勇気を得た。


「ですからミ……いえ、さる御仁のお屋敷で既に事情をご存じなのだと知ったときには安心しました」

「私が知っていることで安心を?」

「あの方の言葉だけを聞けば、厄介な娘だと敬遠されても仕方ありませんから。レグデンバー副団長はそう思わずに私に接して下さるのだとわかって肩の荷が下りたような気分だったんです」


 後半は彼の目を見ていられず、伏し目がちになってしまった。

 遠くで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。しかしカレンとレグデンバーには束の間の沈黙が訪れた。


「私の態度がカレンさんの安寧に繋がっているのですか?」

「はい」


 レグデンバーは口を噤む。両膝に肘をつき、まっすぐ前方に視線を投げて考え込むような仕草をしている。

 一方のカレンは思い切って伝えたことに内心をどきどきさせてレグデンバーの反応を窺っていた。


「嬉しい、と喜んでしまっては不謹慎ですね」


 そうは言うがカレンに向いた彼の双眸は眦を下げ、陽光に藍色を明るく輝かせている。


「私がカレンさんを敬遠するなどあり得ないことですから、今後の安寧もお約束しますよ」

「どうして、そこまで……」

「信じられませんか?」


 思わず口をついた疑問に優しく尋ねられる。

 信じるか信じないかで言えば、レグデンバーがその場凌ぎの軽率な嘘を吐いているとは思えないから信じられる。むしろ疑問の対象はカレン自身に向いていた。


「私相手にそこまで言って下さる理由がわからなくて」


 イヴリンとレグデンバーの言葉には激しい温度差がある。その両者を短時間で浴びた身としてはすんなりと聞き入れることが出来なかった。


「かつて読んだ冒険小説に『落ちた方が負け』なんて一文がありました。今となってはその言葉の意味がわかるような気がします」


 屈めていた上半身を起こし、姿勢を正すレグデンバーは改まった表情を見せる。知らずカレンの背筋も伸びた。


「実際にお会いする以前からあなたのことは知っていました。知らされていた、と言うべきでしょうか。初めて顔を合わせた日のことは覚えていらっしゃいますか?」

「食堂で、私とソフィアの初勤務の日でした」

「えぇ、その通りです」


 正解、と言わんばかりにレグデンバーは大きく頷く。


「あの日、私たちが顔を合わせたのは偶然ではありません。ご意向によるもの、と言えばわかるでしょうか」


 今度はカレンが頷く番だった。ミラベルトの意思が働いている、そういうことなのだろう。

 面と向かって自己紹介を交わせば、それ以降の交流は格段に容易くなる。現に他の騎士や文官たちよりも打ち解けるのは早かった。ソフィアの動向を探ったり、万が一の事態に備えるのに都合が良かったに違いない。


「知らされていたあなたの事情は加味せず、あくまで初対面の女性として接すると決めていました。レオの注文をソフィアさんが受けて下さったので、必然的に私はカレンさんにお願いすることになりました」

「覚えています。パンの追加をお願いされました」

「えぇ、そうですね」


 相好を崩したレグデンバーがくすくすと笑う。


「傍目にも緊張されているのがよくわかりましたよ。それでいて、とても丁寧にパンを運んで下さって」


 自分でも覚えているので羞恥に身を縮こめる。


「その様がとても可愛らしくて……愛おしいな、と思ってしまったのです」


 どくん、と心臓が跳ねた。

 そんな真っ直ぐな褒め言葉も愛情表現もまだ受け慣れていない。しかしレグデンバーはカレンを縫い止めるように見つめてくる。


「会う度にカレンさんの一生懸命な姿に惹かれました。次第にあなたの抱える事情を無視出来なくなりました。不慣れな環境で懸命に自身を確立しようと励んでいるあなたを見て、おこがましくも私が支えとなれたら、と考えるようになったのです」


 一旦言葉を切ると微かな自嘲を浮かべた。


「その後の私の振る舞いは誉められたものではありませんが、気持ちは今お伝えした通りです。昨日今日の思いつきではありません」


 レグデンバーは突として立ち上がり、カレンの正面に回り込んだ。次の瞬間、片膝を地に着けてカレンをぎょっとさせる。


「お、お膝が汚れてしまいます!」

「構いません。どうかお聞き下さい」


 カレンよりも僅かに低い位置で真剣な面差しを見せる。いつもとは違う上目遣いの瞳が、その藍色に反してとても熱い。


「先程はあのような形で宣言してしまいましたが、改めて伝えたい。カレンさん、あなたを妻に迎えたいと心より望んでいます」


 息が止まってしまいそうなほど、胸がぎゅっと締め付けられる。

 初めてレグデンバーの気持ちを打ち明けられたあの観劇の帰り道、カレンを戸惑わせる大きな疑問がふたつあった。

 彼はカレンのどこに惹かれたのか。

 彼の好意の向かう先はどこなのか。

 その両方の答えをたった今、差し出されてしまった。


「で、ですが、私は貴族の身分ではなくて」

「私個人が持つのは一代限りの騎士爵です。何も問題はありません」


 喘ぐように絞り出した反論はいとも容易くいなされる。

 ぐんぐんと熱を増す頬を両手で押さえ込むカレンを見て、レグデンバーは困ったように微笑んだ。


「今すぐの返答を、とは言いませんから」

「は、はい」


 ようやくレグデンバーは立ち上がる。膝についた小石を払う動きですら様になっている。


「このような場でする話ではありませんでしたね」


 腰を伸ばして辺りに視線を巡らせるレグデンバーはそう言うが、むしろ閉ざされた空間よりも緊張感は薄らいだのではないかと密かに思う。

 とは言えカレンの鼓動は早鐘を打ち続け、せせらぐ水音さえ聞こえなくなっているのだが。


「そろそろ日も落ちてきましたね。寮までお送りしましょう」


 ようやく一日の終わりが見え、こっそりと胸を撫で下ろした。



◇◆◇



 職員寮に戻る頃、空はうっすらと赤らみ始めていた。出入りする職員たちの視線を感じながら、カレンはレグデンバーと共に鉄門の傍らにいた。


「本日は色々とお世話になりました」


 深々と頭を下げる。今日は様々なことがあった。そして迷惑を掛けてしまった。


「こちらこそお付き合い下さり、ありがとうございました。お礼と言うわけではないのですが、よろしければこれを」


 上着の内ポケットから包みを取り出し、カレンに向けて差し出す。思わず受け取った包みは手に収まるほどで、その包装紙はカレンが手にしている紙包みと同じ柄だった。


「どうぞ開けてみて下さい」

「はい、失礼します」


 乾いた音を立てながら包装紙を丁寧に開いていくと、中心部から幾重かに畳まれた細いレースが現れた。指で掬って模様を確認すれば、その目の細かさに驚かされる。


「綺麗なレース……もしかしてリボンですか?」

「ご名答です。こんな時刻なので赤い色に見えてしまうかもしれませんね」


 そう言われて改めてリボンに目を落とす。夕暮れで薄赤に染まっているが元は別の色に違いない。カレンにはその色に心当たりがあった。


「繊細で素敵なリボンです。あの、レグデンバー副団長」

「はい」


 今日は様々なことがあった。

 想定外の出来事に見舞われたし、生涯言葉にするつもりのなかった思いも吐露してしまった。


「私、この黒髪が嫌いなわけではないんです」

「えぇ、わかっています」

「ですから、その、私のために選んで下さって本当に嬉しいです。ありがとうございます」 


 贈られたばかりの、レグデンバーが言うところの柔らかく優しい色のリボンを胸に当てて感謝を伝える。

 気持ちが伝わりますように、そう心から願いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る