第31話 夜の街にて

 レグデンバーと中庭を散策してから幾日かの後、ソフィアが申し訳なさそうな表情でカレンの部屋を訪れた。


「……カレン、とても図々しいお願いがあるんだけど」


 深刻な口調で切り出された言葉の続きは驚くものでも困るものでもなかった。


「構わないわ」


 願いを聞き入れれば親友は安堵の色を浮かべて礼と謝罪を口にする。

 さる御仁の計画が早々に実行されることになったようだが、心構えは出来ていた。



◇◇◆◇◇



「この格好でおかしくない?」

「自然な装いだと思うけれど、私もあまり自信がないわ」


 控えめな声で囁き合っているのは屋外の、それも職員寮のすぐ側に立っているから。

 カレンとソフィアの休日が合致した今日、件の予定が組まれた。

 しかしすでに空が茜色に変わろうかという時刻で、休日の半分はとうに過ぎている。そのため、周囲には仕事を終えて寮に戻る職員の姿がそこかしこにあった。


「どうしよう、ものすごく緊張してきたわ」


 襟元や裾に白いレースをあしらった薄グリーンのワンピースを纏ったソフィアは落ち着かない様子で身体を揺らす。カレンの手によって後頭部で結い上げられた淡い金髪にはソフィアの希望で青いリボンが結ばれている。

 一方のカレンはあまり重苦しくならないようにと白ブラウスにキャラメル色のスカートを合わせ、片耳の下で紫黒色の髪をひとまとめにした。

 畏まらなくても良いと聞いているが、行く先が初めて訪れる場所とあっては勝手がわからず、手持ちの中でもなるべく上品に見える服を選んだつもりだ。


「あっ! あれかしら?」


 ソフィアが職員寮と通りを隔てる門の辺りを凝視している。

 そこには大きな影がふたつ、こちらに向かって歩いてくるのがカレンにも確認出来た。


「何だ、早いな」


 着くなり口を開いたのはいつもより幾分丁寧に赤髪を整えているカッツェ。その隣のレグデンバーの髪は今日もこざっぱりとしている。


「すみません、お待たせしてしまいましたか」

「いえ、さっき出て来たばかりですから」

「カッツェ団長、レグデンバー副団長、本日はよろしくお願いいたします」


 しかし二人共に見慣れぬ格好をしていた。

 カッツェは明るい茶色のジャケットを、レグデンバーは彼の瞳に似た藍色のジャケットを羽織り、それぞれが黒いズボンを履いている。

 制服ほどの堅苦しさはないが、そのまま社交の場に出ても問題がなさそうな上品さと清潔感が漂っていた。


「遅れると厄介だ、行くぞ」


 周囲を一瞥したカッツェの声掛けで一同の足が動き出す。

 後方に位置付けたカレンも歩きながら辺りに視線を巡らせてみると、寮に出入りする職員たちの視線が明らかにこちらを向いている。


(ミラベルト様は噂にならないようにと配慮なさったそうだけど……)


 騎士たちが普段出入りすることのない職員寮に現れれば人目につく。それも顔が知れ渡っている一個団の長二人となれば余計に。


「どうかされましたか?」


 歩みの遅いカレンに並ぶように速度を落としたレグデンバーが頭上から尋ねてきたので軽く首を振って答えた。


「随分と人に見られているようなので大丈夫かと心配でして」

「ある程度の注目は想定内ですから、どうか気になさらずに。それよりもせっかくの機会ですから楽しんで下さい」

「はい、そうですね」


 穏やかに微笑まれてしまえば従う他ない。先を行くソフィアとカッツェの後ろ姿を眺めながらカレンたちも後に続く。

 寮の敷地を出て城壁に沿った道を進む。落ちゆく陽の下で街灯が灯り始めると、こんな時間から出掛けることがないカレンには目に映る景色が新鮮だった。


「人通りが多くなるのではぐれないように」

「はい」


 半円形の王城前広場から伸びる道筋の一本を進むと次第に活気付いた街中へと入っていく。軒並ぶ店から漏れる光は明るく、これから夜を迎えるというのに行き交う人々の影は格段に増え、あちこちから話し声や笑い声が聞こえてきた。


「いつもこんなに人が多いのですか?」


 寮を出て以降、ずっと隣に並んでくれているレグデンバーを見上げて問うてみる。


「今日のような休日前はそうですね。お陰で我々の仕事も増えてしまいます」


 眉尻を下げて苦笑するレグデンバーに騎士の気苦労が窺えた。いつぞやのフローランのように負傷に至る出来事があるのかもしれない。


「レグデンバー副団長は」

「待って下さい、カレンさん」


 お怪我に気を付けて下さい、と続けようとしたところを遮られてしまう。


「今夜は役職を伏せてもらえませんか」

「はい、あの、何か不都合が?」

「周囲の方々に緊張感や警戒心を抱かせては申し訳ないですから。今は正式な職務時間ではないですし」


 雑踏に掻き消されないように少し身を屈めた彼の言葉は納得のいくものだった。歓楽街の空気に水を差さないための心配りなのだろう。


「わかりました、レグデンバーさん」

「いえ、どうかドノヴァと」

「え?」


 レグデンバーが瞳を細めてにっこりと微笑む。

 いつもより距離が近いせいか、見慣れない服装のせいか、心臓がぎくりと跳ねる。彼の発した言葉の意味が更にカレンの焦りに拍車を掛けた。


「ですが、家名で呼ぶのが賢明だと以前仰って……」

「こんな言い方は恥ずかしいのですが、家名はそれなりに知れ渡っておりまして。一族の者と察せられやすいのです」


 彼がレグデンバー侯爵家の一員であることを知った夜会が思い出された。

 身元を明かさずにいたいとの希望であれば、カレンの協力は必須となる。ソフィアのための今日を無事に過ごすためにも決意するしかない。


「わかりました……ドノヴァさん」


 過去に一度だけ口にしたことがある名を呼んだ。

 言い慣れない音の羅列が変に響いていないかと心配に陥りかけたが。


「ありがとうございます」


 相好を崩したレグデンバーは夕闇に負けないほどに眩しく、その声は喧騒の中でもはっきりと聞き取れた。


「そろそろ着きますよ」

「は、はい」


 思わず見入りそうになった笑顔から視線を引き剥がす。


(……見蕩みとれてらっしゃるわ)


 対面から歩いてきた女性がレグデンバーの顔をまじまじと見つめながら通り過ぎていく。

 彼女だけではない。街中に足を踏み入れてからというもの、すれ違う人々――特に女性たちの視線をレグデンバーはその身に引き付けていた。

 前方のソフィアとカッツェは二人で会話をしているため、見方によってはカレンとレグデンバーが連れ立っているように感じられるのではないかと不安になる。


(街にもお顔をご存じの方はいらっしゃるでしょうし……)


 カレンと同じくミラベルトの計画に付き合う立場であるのに、不本意な噂が出回ってしまうようなことがあれば申し訳ない。

 とは言え、カレンにはこの状況を変える術もなく、早く目的地に着くことを心の中で祈った。



◇◆◇



「付いてきているな? 入るぞ」


 肩越しに振り返ったカッツェがカレンたちの姿を確認して建物の入り口を親指で指し示す。周囲は今まで以上に人が溢れており、その外観を楽しむこともなく、慌ただしい足取りで屋内へと入った。


「想像以上の広さだわ」

「観客席と舞台はもっと広いはずよ」


 ようやくソフィアと話せる距離になり、感想を述べ合う。

 ミラベルトの指定した場は市民向けの劇場だった。貴族向けのそれと比べると小ぶりで造りの格も落ちるのだが、二人共が初めて訪れる施設とあって前室のホールにすら気持ちを昂らせていた。


「我々の席は三階です。行きましょう」


 レグデンバーの一言を受け、カッツェがソフィアへと手を差し伸べる。戸惑う親友の様子を眺めていると、カレンの視界にも大きな掌が割り込んできた。


「カレンさん、お手を」


 堂々たる誘い方にカレンも面食らってしまう。

 しかしこの場面でエスコートを拒否することがあり得ない行いであることは理解している。


「ありがとうございます」


 消え入りそうな声で礼を伝えて差し出された掌にそっと指を重ねる。触れた部分は温かく、そして硬い。


(大きな槍を振っていらしたものね)


 足は階段へと向かっているのに意識は指先に集中していた。

 こんな風に男性に触れた経験など当然ないので、指が震えてしまわないかと気になって仕方がない。いざ階段を上り始めれば手に力がこもって一層感触が強く伝わり、益々緊張する。

 三階に到着した頃には自分の足元ばかりを見ていた。


「疲れていませんか?」

「はい、大丈夫です」


 気を遣わせてしまったかと顔を上げれば、曲線を描いた廊下にずらりと並ぶ扉が目に飛び込んできた。

 その一端に向けてエスコートされるがままに進んでいく。ホールに比べると人の影が薄いため、すれ違う客の顔がよく見えた。


(あら、今のは……)


 一人の男性と行き交うときに視界に入り込んだ顔に見覚えがあった。この場に相応しい装いをしているが、いつも食堂で顔を合わせている騎士に違いない。


(本当に護衛されているのね)


 前を歩くソフィアに思いを馳せていると、その背中が立ち止まった。

 カッツェが注意深げに辺りを見回す。


「そっちは任せたぞ」

「えぇ、そちらも抜かりのないように」


 騎士たちが頷き合い、カッツェはソフィアを連れて手近な扉の中へと入っていく。

 一方のカレンはそのふたつ先の扉へと導かれた。


「さぁ、お入り下さい」


 レグデンバー自らの手で開かれた木戸の中には小さな空間と椅子が二脚。そして真正面の本来壁があるべき場所はぽっかりとくり抜かれて、立派な手すりが備え付けられていた。


「両隣は空いているのでゆっくり出来ますよ」


 そうは言われても初めての観劇に初めてのボックス席。勝手がわからず、落ち着けそうにない。おずおずと入室したカレンを見かねてか、レグデンバーはくすりと笑みを溢した。


「軽食と飲み物を運ばせます。開演までに腹ごしらえしましょうか」

「は、はい」


 王城では食事の世話をする側なのに、今日はされる側の立場らしい。

 何もかもが日常とかけ離れていて、益々いたたまれない気持ちになるカレンだった。

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