第32話 告白

 冷えた果実水が喉を通り抜けていく。

 その感覚が心地良く、もう一口を嚥下する。自分で思うよりもずっと喉が渇いていたらしい。


「歩き疲れてしまいましたか?」

「いえ、初めての劇場に緊張しているようです」


 そこには彼からのエスコートや、たった今ボックス席で二人きりである状態も含まれているのだが、それは口にしないでおいた。

 レグデンバーはと言えば手すりを兼ねたカウンターに肘を置き、リラックスした様子でこちらを見ている。


「レグデンバー副団長は」

「ドノヴァと」

「失礼しました。あの、ドノヴァさんは劇場に慣れていらっしゃるのですか?」


 周囲に誰もいないからといつもの呼び方をすれば、即座に訂正されてしまった。


「私も随分と久しぶりです。士官学校に入ってからは外出の余裕がありませんでしたし、今は休日を静かに過ごしたいので無縁ですね」

「士官学校に行ってらしたのですね」

「えぇ、レオとはその頃からの仲です」


 団長の名を親しげに呼んだレグデンバーが果実水に口を付けた。まだ開演前で場内は明るく、天井の照明がグラスにきらりと反射して眩しい。


「あちらは大丈夫でしょうか」


 カッツェの名が出たことでふたつ隣の小部屋を思い出す。ソフィアがどう過ごしているかが気に掛かった。


「まだ穏やかに過ごしている時間かと。御仁は開演後の暗く人気ひとけのない頃合いに入室する手筈になっています」


 だとすれば今はカッツェと二人きりのはず。彼女の気持ちを察すれば、それはそれで落ち着かないのでは、と思った。


「以前のお話で仰っていたエスコート役の男性はカッツェ団長のことを指していらしたのですね」

「いいえ、違います」


 中庭でレグデンバーが語った話をようやく見通せたかと思いきや、あっさりと否定された。


「彼は友人の方ですね。男性は私です」

「そう、なのですか? でしたらこちらにいらっしゃってはまずいのでは」

「構いませんよ」


 戸惑うカレンとは裏腹にレグデンバーはぴしゃりと言ってのけた。


「噂が立つことを良しとしないのは、女性側だけではありません。あちらの都合のみを聞き入れる道理はないでしょう」


 言い切る彼の爽やかな笑みはどこか作り物めいて見える。腹に何かを抱えている、そんな印象を受けた。

 それに、と脳裏をよぎる考えがあった。


「噂の相手がソフィアなら困ることはないのかと思いました」

「何故です?」

「それは……」


 言ってしまっても良いものなのだろうか。

 側で成り行きを見守っていただけの第三者に安易に触れられたくないのでは、と思うカレンだったが、レグデンバーの微笑みながらも問い詰めるような視線がこちらに向いている。


「レグ……ドノヴァさんはソフィアに好意を抱いていらっしゃるようでしたので」


 逃げ切ることが出来ずに正直に言ってしまった。


「何故です?」


 同じ笑顔で同じ問いが繰り返される。


「いつもソフィアのことを気に掛けていらっしゃいました」

「護衛対象ですからね」

「それに、ソフィアをお褒めになる言葉を何度も聞いていたので、随分とソフィアに想いを寄せていらっしゃるのだろうと」


 藍色の瞳をぱちぱちとしばたたいたレグデンバーの顔から笑みがすっと引いていく。彼にしては珍しく、眉間に小さな皺が刻まれた。


「そのように思われていたのですか?」

「そのようにしか思えませんでしたが」


 カレンの答えに口元を大きな掌で覆ったレグデンバーは手すりの向こうに広がる劇場内に視線を泳がせる。


「……果物もどうぞ。時間が迫っていますから、今のうちに」


 くぐもった声で、そう告げられた。

 カウンターにはカットされ美しく盛り付けられた果物の皿が鎮座している。

 眼下の観客席は粗方埋まりつつあり、彼の言葉を裏付けている。それならば、と勧められた通りに皿に手を伸ばす。ピックに刺さったオレンジをひとつ口に含めば、瑞々しく甘酸っぱい味が口内に広がった。


「どうやら私は過ちを犯していたようです」


 華やかな劇場に不釣り合いな言い回しでレグデンバーが言葉を紡いだ。

 オレンジを飲み込み、隣に向き直る。カウンターに片肘を置いたレグデンバーもまた真剣な顔つきでカレンを見つめていた。


「まず、カレンさんの認識が誤解であると弁明させて下さい。私がソフィアさんに想いを寄せているという事実はありません」

「そうなのですか?」

「今、彼女と過ごしているのが私ではなくレオであることがその証左です」


 うん?と首を傾げる。

 彼女を想っているが噂の的になることを避けたくてカッツェと交代した、と言っても筋は通る。


「噂が立つことを忌避して交代なさったのではないのですか?」

「真に忌避してのことなら、私は今この場にいないでしょう」


 そもそもこの計画に加担していない、そういうことだろうか。

 言われてみれば職員寮から劇場に至るまでの道のりでレグデンバーは大勢の人々に注目されている。カレン自身も不本意な噂が出回ってしまわないかと懸念したくらいだ。


噂を避けられた、と?」

「それもありますし、彼女をエスコートするのはレオの方が相応しいと思いましたので」


(ソフィアの気持ちに気付いていらっしゃる……?)


 カッツェを名指しした事実からその可能性は高い。

 特別な感情も交えず平然と言ってのけたということは、ソフィアに対して感じた好意はカレンの勘違いで間違いないのかもしれない。


「申し訳ございません。失礼な勘繰りをしてしまいました」

「いえ、誤解を生んだのは私の行いのせいです」


 このとき、会場を揺さぶるような大きな鐘の音が響き渡った。階下の客席から、わっと歓声が上がる。どうやら開演の合図らしい。


「カレンさん、先に伝えておきます。私のソフィアさんに対する賛辞はあなたに喜んで欲しかったから」


 鐘の音と歓声に負けないような張り気味の声でレグデンバーは一息に言い切った。


(私に?)


 そう尋ねたかったのだが。

 突如落とされた照明と派手な奏楽に遮られて何も発せず。隣のレグデンバーが椅子に掛け直す様を見て、自身も居住まいを正す。

 舞台に人が現れるまでの間、彼の言葉を反芻してもその真意は掴めなかった。



◇◆◇



 観客の拍手が鳴り止まぬ中、ボックス席の扉を忙しなく叩く音が聞こえた。

 素早く反応したレグデンバーが応じると、扉の影から大きな身体が現れた。カッツェだった。


「何だ、泣いてるのか?」


 ハンカチを握り締めて目を真っ赤にさせたカレンを見下ろして、にやりとカッツェが笑う。

 指摘の通り、カレンは感動の涙を堪えている最中だった。


「レオ、用件は?」


 レグデンバーの鋭い声が飛ぶ。


「時間が足りないそうだから、お前たちは先に帰せとのお達しだ」

「……我が儘が過ぎる御仁でしょう」


 呆れたような口ぶりはカレンに向けての言葉だった。


「そちらはどうするのです?」

「わからん。御仁とやらの気分次第だ。あまりにも遅いようなら馬車で送るしかない。またあの外套の出番だ」


 カッツェもまた呆れを隠さずに肩を竦めている。第二騎士団に与えられた任務はなかなかに骨の折れるものなのかもしれない。

 伝令を終えたカッツェは身を翻そうとして一旦足を止めた。


「迷惑を掛けてすまない、とソフィアが言っていた」

「構わず楽しんできて欲しい、と伝えていただけますか」

「あぁ」


 情けない鼻声で答えるカレンに頷きを返したカッツェは滑るように扉の隙間を抜けていく。パタンと閉じれば、また二人きりの空間に戻った。


「もう少し落ち着いてから帰りましょうか」


 何がとまでは言わないが、きっとカレンの涙を指している。さり気ない心遣いが嬉しかった。

 再び腰を下ろしたレグデンバーはゆっくりと口を開く。


「観劇はいかがでしたか?」

「とても素晴らしかったです。物語の展開も、真に迫る演技も、情感溢れる音楽も、何もかもが……」


 思い出すと込み上げてくるものがある。それほどまでに初めての劇場と観劇はカレンに新たな世界を与えてくれた。


「楽しめたなら何よりです。我が儘に振り回される分、役得は必要ですから」


 カレンにとっては予定もないありふれた休日に観劇の招待を受けることは役得という言葉以上のものだ。


「ドノヴァさんも楽しめましたか?」

「えぇ、楽しんでいます」


 皿に残ったベリーを口に運んだレグデンバーは小首を傾げるようにカレンにその目を向けた。


「今もソフィアさんが気になりますか?」

「そう、ですね。有意義な時間を過ごせていれば嬉しく思います」

「カレンさんは本当にソフィアさんを大事に思っていらっしゃるのですね」

「彼女と出会わなければ、きっと今の私はいませんから……かけがえのない人です」

「明るくて朗らかなお人柄には我々も活力をいただいていますよ」

「えぇ、そうなんです。修道院でお世話になっていた頃からずっと元気付けられて支えられていたんです」


 レグデンバーがふっと気の抜けた笑みを漏らす。


「ほら、カレンさんはそうやって笑うでしょう?」

「え?」


 唐突な話題転換に緩んだ頬のまま固まってしまう。


「ソフィアさんにまつわる言葉に反応してカレンさんは笑顔を見せてくれるんです。だから私は失敗しました」

「失敗?」

「言ったでしょう、あなたに喜んで欲しかったから、と」


 演劇の世界に呑み込まれてすっかり忘れていたが、確かに彼はそんなことを言っていた。

 思わず見つめた顔は眉尻を下げた苦笑に変わる。


「カレンさんの笑顔を見るために私に出来たことは、それくらいしかなかったのです」


(……わからないわ)


 言葉の意味は理解出来る。しかし、発言の意図がわからなかった。

 何故彼は自分を笑わせる必要があるのか。

 その疑問をカレンが発するよりも前にレグデンバーが先を続けた。


「いつだったか、あなたにはソフィアさんに直接伝えた方が良いと言われたことがありました」


 それには覚えがある。

 文官からソフィアに向けられた配達依頼や、合同訓練でレグデンバーに告げられた一言に複雑な感情が入り混じっていた頃。いつものように差し出されたソフィアへの賛辞が駄目押しとなり、拒絶の意を込めて言い放った。

 今となっては文官の狙いもレグデンバーの言葉の意味も明らかだが、カレン自身の発言は宙に浮いたままだ。


「あのときもやはり誤解の上から?」

「はい。ソフィアを好きなら直接本人に言って下されば良いのに、と……」


 カレンの言葉を受けたレグデンバーの表情が苦いものへと変わっていく。


「無神経な振る舞いを何度も繰り返してしまいました。申し訳ない」


 丁寧に頭を下げる様子に彼の謝意の深さが表れている。


「済んだことですから、頭を上げて下さい」

「では私が二度と過ちを繰り返さないためにも、カレンさんに誤解を与えないためにも、どうか聞いて下さい」


 おもてを上げたレグデンバーの双眸は熱く鋭く、真剣味を帯びていた。


「私の過ちはカレンさんを喜ばせたいがためのものでした。私はあなたの笑顔が見たかった。あなたのことが好きだから」


 その言葉は今日観た演劇のどのセリフよりもカレンの耳に強く響いた。

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