32. 黒毛の馬
私は音を立てないようにベッドから出て、床に脱ぎ散らかされた服を拾った。下着はぐちゃぐちゃに汚れてて、昨夜の
私は慌ててそれをゴミ箱に捨てる。こんなものをカルに見られたら死ぬ! そして、ワンピースを畳んだあと、クローゼットをそっと開けた。そこには、簡素なワンピースや、真新しい女性用の下着が入っていた。
これはどういうことなんだろう。王族が情婦を連れ込むための部屋?
むくむくと沸いてくる妄想に、私は慌てて蓋をした。余計なことは考えない方がいい。とりあえず、適当な下着を選んで、無難なパステルオレンジのワンピースを身に着けた。
なぜかどれもサイズが私にピッタリだ。ヒロインのサラちゃんの胸は、このサイズのブラには収まらないと思うんだけど……。
とにかく、こんな情事の匂いが濃い場所で、冷静に物事が考えられるわけがない。カルは気持ち良さそうに眠っているし、当分は起きないだろう。
私はそっと部屋を出た。そのまま庭に出ると、外の空気が清々しい。宮殿の朝は夜とは違う美しさがあった。
特に、朝焼けと朝靄の中庭は、この世のものとも思えなかった。南国風の花たちが一斉に花びらを開き、噴水のある水路には雀が水浴びに来ていた。庭園の木からは小鳥の鳴き声が聞こえる。
「きれい……」
思わずそう口に出したところで、私は奥の泉のそばに、一頭の黒い馬がいることに気がついた。鞍を付けていないので、たぶん野生だろう。泉の水を飲んでいる。
目が合っても逃げないので、そっと近づいてみた。大丈夫、怖くないよ。私は友達だよ。ねえ、あなたとお話しさせて。
私の気持ちが通じたのか、その馬はそのままそこにとどまっていた。そして、私がそっとその鼻ずらを撫でると、気持ちよさそうに頭を擦り寄せてきた。
「賢い子ね。とてもきれいな毛並みだわ。カルの髪の色みたい」
そう言ってたてがみを撫でると、その馬は嬉しそうに小さく嘶いた。その漆黒の目は、水を含むように濡れていて、カルの瞳を思い出させた。
「ねえ、君は好きな子はいる? 私には大好きな人がいるの。その人はね、君みたいな漆黒の髪の毛を持ってるんだよ。そしてね、君みたいにきれいな黒い瞳なの」
馬はますます嬉しそうに、体を寄せてきた。私はその首に顔を寄せて、その鼻づらをゆっくりと撫でてあげた。この子は私が好きなんだ。
「君が私の好きな人だったらよかったのにな。そうしたら、ずっと一緒にいてくれる? どこにもいかないで。私をひとりぼっちにしないでくれるかな」
その馬は、もちろんだと言うかのように、優しく顔を寄せてきた。そして、まるで涙を堪えるかのように濡れてキラキラした目で、何度も瞬きを繰り返した。
「優しい子ね。ありがとう。私は大丈夫。心配しないで」
私はほんの少しだけ、聖女の力を使った。この子が幸せになるように。ささやかな祝福の力を、手から直接この子に流した。拒絶されなかったので、きっと、私の気持ちを分かってくれたんだろう。
不思議な子。本当に私と話してくれているみたい。なんだか、とても癒やされる。
「シア! ダメだっ! そっちに行っちゃいけないっ」
ずいぶんと必死なカルの声に振り向くと、その馬はちょっと驚いてから、ゆっくりと走り去ってしまった。あら、お邪魔だと思ったのかな。
カルはたぶん、私を心配して探しに来てくれたんだ。大好きなカル。大丈夫、私はあなたの幸せのためになら、なんだって諦めてみせる。それが私の命であったとしても。
だから、安心していいよ。あなたの前では、絶対に泣かないから。私のことを心配せずに、あなたが選んだ道を進めるように。
「しーっ、黙って。大きな声を出しちゃダメよ。野生の馬が来ていたの」
私はカルの胸に飛び込んで、そして、人差し指をその唇にそっと押し当てた。
「水を飲みに来たのよ。あの森に棲息しているんじゃないかな?きれいな黒毛の子よ」
そして、あなたにとても似ているの。外見だけじゃなくて、中身もよ。とても優しいの。だから、私は大丈夫。あなたがいなくなっても、きっと私は、ひとりぼっちにはならないから。
真剣に、カルから離れることを考えよう。カルが、なんの憂いもなく幸せになれるように。それが、私が大好きなカルにしてあげられる、唯一のことだから。
大丈夫、カルは私が守る。それが私の愛のかたち。だから、どうか私を解放してください。
温かいカルの胸の中で、私は祈るように目を閉じた。本当はこのまま、空気に溶けて消えてしまいたかった。
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