27. バルの噂話
「もう少し飲みたいから、俺に付き合ってくれよ」
タブラオだけでは飲みたりなかったらしく、カルはもう一軒ハシゴしようといった。
「じゃあ、普段は行けないような、下町のお店がいいな!」
「よしっ! じゃ、バルに行こう。いい店があるだ」
「えー、ちょっとカル、どんだけお忍びで遊んでんの?」
「いや、違うよ。さっきの店の常連たちに連れ回されたんだって」
それで毎晩、お酒臭かったんだ。あれでよく学校で寝なかったな。カルってなかなかお酒に強い?
いやいや、酔っぱらって私のベッドに入ってくるようじゃ、飲んだんじゃなくて、飲まれたというほうが正しいか。
「ほら、ここだよ。床が紙だらけで汚いだろ。これが人気の店の見分けかたなんだ」
マドリードのバルも、こんな感じで床がゴミだらけだった。あぶらとり紙くらいの小さな紙ナプキン。タパスをつまんだ指をそれで拭いて、そのまま床に落とす。
その紙くずの数が、すなわち入店者の数ということ。だから、人気の証拠らしい。
「へー、面白い。カル、すごく社会勉強したんだね! 私のおかげ?」
「ばーか、調子に乗ってんなよ。興味あったんだよ、旧市街に。あんま来ないだろ」
「うん。治安がいまいちだからね。目立つ格好では、確かに来れないよね」
ここに王子と聖女がいると知ったら、この店のお客もどれだけ驚くだろう。見た感じそんなに悪そうな人はいないけど、特権階級に対して誰がどんな感情を持っているかは分からない。
「ね、私もちょっと飲んでみたいな」
ビールを頼んだカルのそばで、私はちょっと甘えた声を出してみた。
「お子様はダメ。シアは水ね」
み、水って! ちえっ、やっぱダメか。ケチ。
私はガス入りの水をちびちび飲みながら、ほうれん草が入った卵焼きをつついた。そのとき、向かいのカウンターに座っていたおじさんの声が耳に入ってきた。
「いやあ、聖女様の美しさと言ったら。ありゃ、もう神様だね」
「俺もそう思ったわ。人間じゃないな。月の女神さんだ」
「ありがてえよな。うちの母ちゃんも、聖女様の癒やしで良くなったし」
「ああいうお方は、神殿の深くに祀られてるのになあ、普通は」
「なんでも、第一王子が離さないらしいぞ。噂じゃ、すでにモノにしてるとか」
「王子も男か。にしても、聖女と寝るとか、並の人間にはできねえだろ」
「だから、王子さんだからできるんだろ。いい男だしなあ」
うわっ! 何の話をしてるんだ、この人たちはっ!
私が慌ててカルを見ると、しーっと人差し指を唇の前に立てて、黙って聞くように合図された。いたたまれない。
「しかし、聖女様には外国からも山のように縁談がきているらしいぞ。正神殿も狙っているとか」
「王子さんも大変だよな。あれほど美人じゃなくても、そこそこ可愛い子で、面倒なことがない女のほうが、男には楽なのにな」
「そりゃそうだ。母ちゃんがあんな美人だったら、俺ゃ気が休まらねえな」
「ま、いずれは壊れるだろ。聖女が俗世に染まるわけがねえ」
「そのうち、神さまのお呼びがかかるってことか。まあ、長生きしそうにないよな」
ひどいこと言うなあ。なんで私が短命なんだよ。そう思ってふと見ると、カルが拳をぎゅっと握っていた。あ、ダメダメ。カル、こんな軽口、気にしちゃだめだよ。
「ね、もう出よう。ほら、あの建物の中、見せてくれるんでしょ」
「ああ、うん。そうだな」
カルは少しだけ残っていたビールをぐっと飲み干すと、私の手を取って店の外にでた。そして、開口一番に私に謝ってきた。
「ごめんな、不快だったろ」
「いいよいいよ。私、そんなにか弱く見えるのかねえ。色素が薄いからかな。見た目騙しだよね」
私はわざと、明るく言った。特に病弱なわけじゃないけれど、この体はこの国の気候に合わせて作られたものじゃない。完全に見た目重視。
若くして亡くなった母は、極寒の北の大国から嫁いだ人だった。私も体質的には、暑いのは苦手だし、食も細いかもしれない。
「シア、具合はどうなんだ? きつくないか。もう帰って休もうか」
「やだ。今日は不良の設定だよ。なんでこんな早くに帰るのよ」
「いや、やっぱり心配だ。お前、あんまり食べてないし」
「はあ? 絶対いや。じゃ、カルだけ先に帰れば? 私はもうちょっと遊んでいく!」
「バカ、お前一人残していけるわけないんだろっ! 分かったよ。じゃ、離宮だけな」
「わーい。ありがと! よしっ! 行こう!」
私はカルの腕に自分の腕をぐいっと組ませて、「おー」ともう片方の腕を天に突き上げた。カルのため息には、思いっきり気が付かないふりをして。
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