26. 初めてのキス

 そうか。最近の外出、あれはここに来てたんだ。まさか、踊りの練習のために?


「あの、カルの練習に……付き合ってくださったんですか」


「おお、そうよ。ここ数週間ほどスパルタでな。好きな女と踊りたいからって頼まれちゃ、断るなんてできないだろ」


「ショーの間は店を手伝うって条件で、毎日深夜まで練習よ。よくやったもんだ」


「このイケメンにいちゃんが、あれだけ必死になるんだ。どんだけ惚れてんのかと思ったが、そら、こんな女なら惚れるわな。嬢ちゃんの踊りは最高だったよ」


 常連さんたちは酔っ払っているのか、今にも泣き出しそうな顔をしながら、満面の笑みを浮かべている。


 カルが、そんなことをしてたなんて……。私とここで踊るために?


「シア、もう出よう。この後にも予定あるから。どうも、ごちそうさまでした」


 私に顔が見えないようにしながら、カルは周囲の人に挨拶した。すると、なぜかドッと周囲が沸いた。


「そりゃそうだな。にいちゃん、今夜はバッチリ決めないとな」


「だなあ、ごちそうさんはこっちのセリフだ」


「頑張れよ! 女は口説いて口説いて、口説き落とす! これだけだ!」


 ヒューヒューと口笛つきでからかわれながら、私たちはなんとかレストランの出口にたどり着いた。そこには、さっきの踊り手の女性がいた。


「いい踊りだったよ。また踊りたくなったら、いつでもおいで。大歓迎だ。まあ、このにいちゃんが許さないだろうけどね」


「あの、カルが、お世話になりました。今日も素敵な踊りをありがとうございます」


「なーに、今日の主役はあんたらに持ってかれたさ。仲良くな」


 カルは無言で頭を下げて、私の手を引いていく。私は振り返りながら、見送ってくれるみなさんにお辞儀をした。


 まだ、夢を見ているみたいだ。カルとダンスが踊れるなんて。それも、こんなに人が温い、こんなに素敵な場所で。


 カルは店を出ると、山側に向かう通りを黙って登っていく。私の手を引いたままで。そして、猛特訓をバラされたことに、ブツブツと文句を言っていた。


 どうやら、カルはダンスが苦手だったらしい。王子教育を完璧にこなしていると思っていたのに、カルでも不得手な科目があるんだ! 意外な事実!


「くっそ、あいつら、口が軽すぎるだろ。あれじゃ台無しじゃないか」


「あの、カル、私はすごく楽しかったし、とっても嬉しかったよ。ありがとう」


 本当に本当に、私は楽しかったし、ものすごく嬉しかった。


 だから、どうしてもそれを伝えたかった。どう言えば伝わるんだろう。なんて言えば、分かってもらえるんだろう。


 カルが好き。すごく好き。あなたを愛している。そう伝えられたら、どんなにいいだろう。でもダメ。それはいずれ、カルの重荷になってしまう。


 カルに手を引いてもらいながら、タブラオの横にある階段を五分ほど登る。崖の上に到着すると急に視界が開けた。そこは展望台がある広場だった。タブラオがある旧市街を挟んだ向こうの丘に、ライトアップされた宮殿が浮かび上がっている。


 うわっ! まんまアルハンブラ宮殿。ゲーム作家のスペイン狂いが目に見える!


 そう思いながらも、私はその幻想的な風景惹きつけられた。森林の緑と夜空の紺、その狭間で黄金に照らされた建造物。前世で見たときよりも、ずっとずっと美しい光景だった。


 そう思うのは、きっとカルが一緒だから。カルと一緒にいると、世界が輝きだす。


「きれい! すごく素敵。ロマンチック」


「気に入った? あれは離宮だけど、夜は中もきれいなんだ。後で見に行こうか」 


「え、私が入ってもいいの?」


「当たり前だろ。王子の俺がいいって言ってんだから」


「やだ、すっごい偉そう!」


 私がそう言って笑うと、カルは目を細めてから、私の頬を両手で包んだ。そして、あっと思う間もなく、唇が重なった。


 事故チューでも人命救助でもない。エロいキスでもなくて、ただただ優しくて。愛されていると実感させるような、唇をついばむだけのキス。


「婚約五年目の記念日だ。今年もシアと一緒に過ごせてよかった」


 カルのその言葉を聞いて、私は涙が滲んだ。来年の今日は、もう一緒じゃないかもしれない。カルの隣にいるのは、私じゃないかもしれない。


 もし、このままカルと一緒にいられるなら、何もかも捨ててもいい。カル以外はもう何もいらない。私はそのとき、本気でそう思っていた。

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