10. 舞台はカルメン

「この学園に幸多からんことを」


 決められたセリフを棒読んで、私は神の力を掬うように、手を胸の上あたりに持ち上げる。

 そのときには、さすがにカルも手を離してくれたけど、側から離れる気はないらしい。


 この祝福の儀式の最中に、ヒロインは貧血で倒れることになっていた。


 でも、これは第一王子のフラグじゃない。さすがに全校生徒の前で、婚約者の私を置き去りにして、ヒロインを助けにはいけない。


 そういうのは、もっとイベントをこなした後で、第一王子の高感度がガツガツに上がってから。ここは、別の攻略対象者のアピール場面だ。


「シア、よせ!今は祝福だけでいい」


 カルの声で、私はハッと正気に戻った。ゲームのイベントのことを考えていて、うっかり力の調整を忘れていた。


 手からはドライアイスの煙、じゃなくて神力が溢れている。会場には森林のマイナスイオン・シャワーのような柔らかな癒やしが降り注いでしまっていた。


「あ、やばっ」


 私は小声でそうつぶやくと、急いで力を収めた。その瞬間、クラっとした立ちくらみに襲われた。


 まずい、祈りもせずに力だけを使いすぎてしまった。


 祈りというのは、つまり森羅万象からエネルギーを集めるためのもの。それを怠ると自分の中の貯蓄が減ってしまう。

 これはたぶん、気功とかレイキとか、そういうのを参考にしたんだろうとは思う。


 でも、この祈りは言うほど簡単じゃない。誰にでもできるんだったら、そもそも聖女なんて仕事はいらない。


 私はなんとかお辞儀をして、儀式を終了させた。すごいぞ、私。人間、気力でなんとかなるものだ。今日もきちんと、聖女のお勤めは果たせた!


 それでも、足元がおぼつかず、よろよろと椅子のほうへ異動しようとした私を、カルが片腕で支えた。


 会場からため息が漏れる。傍から見れば、婚約者の腰に手を回した、仲良しアピールに見えるだろう。


「ばか、やりすぎだ。俺にもたれろ。支えてやるから」


「うん、ありがと。ごめん」


 カルにそう言われて、気が抜けてしまったのか。急に目の前が暗くなって、足から力が抜けた。


 あ、私、倒れるんだ。ヒロインじゃなくて、私が倒れてどーする。

 さすが悪役令嬢、こういう邪魔の仕方もあるのね。転んでもただじゃ起きないってことか。


 入学式の会場となっている講堂に、女子生徒たちのきゃーっという悲鳴と、男子生徒からのどよめきが轟いた。


 え、何? 事件? まさかテロ?


 驚いて目を開けると、カルのどアップだった。そして、えーと、たぶん、キスの真っ最中?


 違う、これはマウス・ツー・マウス。救命救急法の人工呼吸!


 違っているのは、口から注入されているのは、酸素ではなくて魔力ということ。

 仰向けに倒れた私を、片膝立ちで抱えながら、大勢の前でキスするとか、これはなんの演出だ!


 そうか。この構図はカルメン。どう見てもカルメン。この世界、本当にスペインが好きすぎるっ!


 セビリアのタバコ工場で働く美しいジプシーの娘カルメン。彼女に誘惑されて捨てられたドン・ホセは、愛の深さゆえの独占欲でカルメンを刺してしまう。


 最後の場面で、死にゆくカルメンに口づけをするドン・ホセ。あのオペラの演出は、確かにこんな感じだった。


 セビリアにはカルメンの舞台となった『旧王立タバコ工場』があった。思った以上に立派な建造物で、素晴らしく重厚なバロック様式。


 あんな石造り、日本だったら耐震構造なしで危ないったら! 西洋に歴史的建造物が多いのは、やっぱり地震がないからだろう。


 そういえば、ヨーロッパではジプシーをRomaロマと呼んでいた。その響きからRomanianルーマニア人だと誤解されるらしく、彼らには好まれない話題だ。


 実際はどこの国の人というのではなくて流浪の民。中央アジア近辺の混血なんだと思う。


 カルの魔力のおかげで力は戻ってきたけれど、公衆の面前でこんな羞恥を晒して、とても平静じゃいられない。朝礼でおしっこをもらしてしまった小学生の気分だ。


 もう無理! 逃げるが勝ち!


 そして、私は意識を手放す。さすが聖女。力が戻れば失神だって思うがまま。


 気を失う直前にちらっと見えたヒロインは、元気そのもので心配そうにこっちを見ていた。


 どうやら、癒やしの力が効いてしまったらしい。彼女が倒れないなら、イベントも発生しない。うっかりとはいえ、フラグをバッキバキに折ってしまった。


 邪魔をしてしまって、本当にごめんなさいっ! わざとじゃないから、断罪しないで。


 カルメンみたいに、愛した男に抱きしめられたまま死んじゃえたらいいのに。そんなことを思いながら、私はカルの腕の中に身を投げた。 

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