【番外編】「レティスが隣にいれば」

 リーンハルトにとって絵を描くことは、息をすることと同じだ。


 周囲の目から逃れることが出来る庭園での散策と共に、もし許されなくなったら、彼は死んでしまうだろう。


 昔から絵を描き始めると、すべてを忘れて没頭してしまう。寝る前に少しだけと描き始めたつもりが夢中になりすぎて、気づけば隣に家庭教師が立っていたことも一度や二度ではない。王からリーンハルトの教育を任されていた家庭教師は、リーンハルトがそうして我を忘れて絵を描いていると、いつも哀しそうだった。


『文字を読むのもそれくらい熱心にしてくださればいいのに……』

 

 その言葉は、静かでもリーンハルトの胸を突き刺した。


(僕は……できないんだ、みんなと、同じようには……)


 家庭教師は決して横暴ではなかったが、リーンハルトを“理解”しようとはしていなかった。けれどもちろん、彼には彼の役目があり、立場がある。

 第二王子の教育を任された彼は、間違いなく優秀な人材で、期待されていたのだろう。そんな彼がリーンハルトを叱咤激励するのは当然のことで、そのことを責める気には到底なれないが、それでも文字が捻じれ、歪んで見えるリーンハルトには、家庭教師が望みの成果を出すことができない。

 家庭教師だけでなく、周囲の期待に――おそらくそれも、いわゆる『王子としての普通』で、決して高望みではない――応えられない自分がはがゆかった。


『あのはずれ王子は、目を離すと庭園にいるか絵を描いてるかで……ただの穀潰しとしかいいようがない』


 使用人たちが噂をするのを耳にしたのも一度や二度でなかったし、貴族たちは言わずもがなだ。

 

『陛下はあんなに優秀な方なのに……、まさかあんなはずれがいるとは』

『せめて兄王子たちはまともでよかったな』

『まったくだ。みんながはずれ王子だったら、我が国のお先真っ暗だ』


 何を言われようとも、それは真実で。

 だからぐっとこらえて、俯くばかり。


 変えれるものなら変えたかった。

 だが、どうしても変えられないのだ。


 父である王は許容してくれていたと思う。

 少なくても、頭ごなしに否定されはしなかった――もちろん『王子らしく』振る舞ってほしいと思っていただろうが。

 そしてルパートも、いつでも味方だった。


 けれどそれ以外にリーンハルトが絵を描いて、喜ぶ者はほとんどいなかった。

 だから王宮にいるときには、リーンハルトにとって絵を描くことは、息を潜めて、隠れてしなければならないことだったのである。

 

 だが離宮にきてからは、違った。


 父には申し訳ないが、離宮へと追放されてリーンハルトはほっとしている部分があった。もう誰も、自分のことを王子として見ないだろうから。

 だから絵だっていくらでも描くことができた。それこそ時間を忘れても、誰も何も言わない――むしろ皆、彼が絵を描いている方が手がかからないから、助かるだろう。


 ……と、思っていた。

 レティスに会うまでは。


 レティスが、誰かのために絵を描くことを教えてくれたから。


 そして彼女に会うまで、自分がどれだけ孤独だったかも、リーンハルトは知らなかった。


 ふわっと、意識が浮上した。


(――ん、レティスがいる気がする)


 リーンハルトは、それまで集中して見つめ続けていたキャンバスから視線を逸らして、振り向く。果たしてそこには、いつからいたのだろう、ソファで座ってうたた寝をしているレティスがいた。


 ちょっとだけ口を開けて眠っているレティスは、とてつもなく可愛い。彼女はどうやら本を読んでいたようで、膝から半分滑り落ちかけている。

 あまりの可愛さにリーンハルトがレティスの隣に座ると、その気配で彼女が目覚めた。ゆっくりと瞳を開けるレティスをリーンハルトはじっと見つめる。


(綺麗な、オパールグリーン……)


 色鉛筆をどんなに重ねてもどうやっても出せない、レティスだけの美しい色彩だ。


「……あ、寝てしまってましたね、私」


 ぼんやりとしたレティスの声が、ちょっとだけ掠れている。


「うん。結構待たせちゃった?」

「いえ、そんなことはありません」


 レティスは居住まいを正して、微笑んだ。確かに今日は自室に入ったのが昼過ぎで、まだ陽が高いからそこまで時間が経っていないようだ。

 リーンハルトは誘われるようにレティスのほつれ毛に手を伸ばして、人差し指に絡める。


(レティスがこうやって部屋にいてくれると、すぐに気づくんだよな)


 彼にとってレティスだけが特別だ。


「今は何を描いていらっしゃったんです?」

「カルーナ・ブルガリスだよ」

「まぁ!」


 レティスの綺麗な瞳が丸くなり、リーンハルトは驚いて彼女の髪から手を離した。


「どうしたの?」

「よろしければ是非見てみたいです」


 わくわくしたような口調で言われて、リーンハルトは微笑んだ。


「なんだそんなことか。まだ全然描けてないけど、それでいいなら」

「はい、ありがとうございます!」

 

 レティスがぱっと笑顔になると、リーンハルトはそれだけで幸せになる。


 二人でキャンバスをのぞきこむ。

 カルーナ・ブルガリスはリーンハルトの好きな草花でもかなり上位に入る。まだ鉛筆でのデッサンの段階だが、これから色鉛筆で色をのせていくつもりだ。


「素敵……!」


 レティスは真剣な眼差しでデッサンを眺めている。

 彼女にそう言ってもらえると、リーンハルトは胸の奥がむずむずしてしまう。


「素敵って言ってくれてありがとう」

「特徴を本当によく捉えていらっしゃると思います。私、リーン様の挿絵が載っている植物図鑑があったら間違いなく読みこんでしまうでしょうね」

「ほんとう?」


 自身はほぼ本を読まないこともあり、まず考えたことがなかったリーンハルトはぽかんとしてレティスを見やる。


「はい。描いてみたらよろしいのに」

「僕が、本を……?」

「ええ。植物の知識も詳しくていらっしゃるし、リーン様だったらきっと成し遂げられるはずだわ」

「知識……? でもレティスも以前よりずっと詳しいと思うけれど」

「そう言ってくださってありがとうございます。リーン様にいただいた図鑑のおかげですわ」


 レティスは熱心に植物について学んでくれているのは、日々感じている。そんな真面目なところも、彼女の好きな部分だ。


「それはよかった。……あの本、たくさん植物について載ってるでしょ?」


 リーンハルト自身は読んでいないため、そう尋ねると、レティスはちょっとだけ返答につまる。


「頂いた植物図鑑、とっても素晴らしいのですが……、専門用語が多いので、読み解くのに時間がかかるんです。本当はもっともっとたくさん勉強したいのですが」

「そっか……」


 図鑑の類は、名だたる学者が記していることが多いため、難解なのは仕方ない。

 相槌を打ちながらもリーンハルトはぼんやりと考える。


(もし僕が本当に植物の本を書くなら、貴族だけじゃなくて、みんなに読んでもらいたい。だから挿絵は詳細に書いて、簡単な文章を添えるだけにするかな。あ、でもその植物が薬か毒かは書いておきたいし、どこを触ったら毒で、薬かとかも――)


 突然、目の前が開けたような感覚にリーンハルトは陥った。


「もし、僕が植物の本を描いたらどうだろう」


 自分の大好きな植物を自身の絵で描いた本を記すことができれば――。

 その想像はリーンハルトを一瞬で高揚させた。けれど、すぐにその高揚感はしぼんでしまう。


「でも、僕は読めないだけじゃなくて、まともな文字も書けないし……あと、嘘は書いたらいけないから、ちゃんと調べなきゃ。でも調べ物をしようと思ったら、本がまともに読めない僕じゃ時間がかかっちゃう」

 

 自然と声が小さくなっていってしまった。

 そこでレティスがキャンバスからリーンハルトに視線を戻す。


「私がいるじゃありませんか」


 彼女は、あっさりとこともなげに言い切る。


「え?」

「リーン様の考えていらっしゃることを教えてくだされば、何でもお手伝いします」

「……レティス、が……?」

「はい。喜んで、させていただきます」


 レティスの眼差しは澄み切っていて、彼女の思いがひたひたと伝わってくる。


「ほんとに?」

「ええ。お安い御用です。私は絵が描けませんからそれはリーン様にお任せして、私は調べ物をします。お互いに得意なことをしましょ?」


 彼女がにっこりと笑う。


 リーンハルトの胸の中で色々な思いが溢れそうになり、彼は必死でそれを抑え込む。落ち着け、と自身に言い聞かせながら、目の前の大好きな婚約者を見つめる。


(レティスがいうと……僕が文字を読めないことも、なんでもないことみたい)


 リーンハルトは、本を読むのに大層苦労したが、本当だったら植物図鑑を読むことができたら、と子供の頃からずっと考えていた。それが自分で描く――?


(僕みたいな人間でも読みやすい本を書けるかな……? 植物から出来る薬についても書いたら役に立つと思うんだよな……)


 植物にいくら詳しいとは言え、間違いがあってはいけない。

 先ほど言ったように、まずは調べるところから始めることとなる。レティスだけではなく、ルパートやその他にも力も借りなくてはならないだろう。それでもきっと並大抵のことではない。


 だがレティスが隣にいてくれると思うと、なんでも出来る気がする。


「ちょっと考えてみてもいい?」

「はい、もちろん。リーン様のお気に染まぬことはする必要はありませんわ。でももしお望みでしたら、私はなんでもお手伝いいたします」

「ありがとう、レティス!」


 リーンハルトは隣に立っているレティスをぎゅうっと抱きしめる。

 ふふ、っとレティスが軽やかに笑い、リーンハルトの胸が幸福で満たされた。


 これが後世まで読みつがれる『はずれ王子』による植物図鑑の、始まりの第一歩であった。

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