第12話 「はずれ王子との婚約 ②」



 ラッドリーはレティスにしっかり務めるように、とだけ言い置くと、まるで小躍りしそうな勢いで、足取りも軽く離宮から去っていった。


(後ろ姿だけでも嬉しそうだってわかるわ)


 レティスはぼんやりそんなふうに思う。

 それからベッケンバウアー自らレティスを部屋へと案内してくれることとなった。


「僕も行ってもいい?」


 リーンハルトが申し出たが、宰相はあまりいい顔はしなかった。


「とりあえず今日のところは、私がします。彼女も疲れていると思いますから、部屋に案内してそのまま休んでもらうことにしようかと」

「そっか」


 そう言われたリーンハルトは、レティスに視線を送り、納得したように頷いた。


「分かった。じゃあ、また明日ね、レティス」

「はい、……殿下」


 リーン様、と言わなかったのはベッケンバウアーが側にいたからだ。リーンハルトは軽く頷くと、二階へ続く大階段を登っていった。少し跳ねるような足取りの彼を見送ってから、ベッケンバウアーがレティスを見下ろした。


「よし、ではざっと説明しよう」

「お願い致します」


 王宮が所有している離宮のうちでも一番小さいとのことだったが、二階建てで十分広い。

 一階には応接間やサンルーム、図書室、厨房などがあり、二階の一番奥にリーンハルトの執務室や寝室が並んでいるという。

 まだ婚約者であるレティスは客間のうちの一つに案内された。

 アーヴァイン家の自室の二倍はある大きさで、しかも寝室と浴室もついている。高級なマホガニー材だと一目で分かるローテーブルや、革張りのソファなど何もかもが豪華だ。だがあまりにも豪華すぎて、逆に落ち着かない。


「普通ならば婚約した当日に……と思われるだろうが」


 部屋に入るや否や、ベッケンバウアーが口を開いた。


「特殊な事情があって、殿下に関してはこうした流れにすることになっている」


 ――それはあれだけ元気そうなリーンハルトがどうしてか“療養中”となっていることに関するのだろうか。


 思いきって尋ねてみようかと思ったが、さすがに勇気が出ない。そんなレティスを見越したのか、ベッケンバウアーが口を開いた。


「それらに関しては……また日を改めて。君が慣れた頃に、ふさわしい家庭教師もつけよう。とにかく、アーヴァイン侯爵の賛成を得たとはいえ、君の評判を守るための最大限の努力はしようと思っているからそれだけは信じて欲しい」

「……はい」

「ここは殿下の部屋からは一番離れているし、内鍵もかかる。使用人たちも口が堅い者ばかりを集めてあるから、噂が広まることはないだろう」

 

 きっと嘘はついていないだろう、レティスはそんな気がした。

 淡々としているが、彼はそこまで悪い人ではなさそうだ、と感じた――彼にとって優先するべきことは、王とリーンハルトというだけのことで。


「困ったことがあればジャスターか、メイド長のミシェルに言うこと。他にも気の利くメイドを二、三人つけるようにする」

「お心遣い感謝致します」


 レティスが頭を下げると、ベッケンバウアーがはあ、と息を吐く。


「色々とすまないね。これでも君に感謝しているんだ――とにかく今夜はもう部屋でゆっくりしなさい。夕食はここに運ばせるから」


 そう言い置き、宰相は去っていった。

 途端に手持ち無沙汰になったレティスは、ソファに腰掛ける。

 部屋は広くて豪華だが、サンルームとは大違いで、がらんとして見えた。


(……することが、ない……)


 レティスは俯くと、目を瞑った。


 しばらくしてジャスターが荷物を運んできてくれ、メイド長のミシェルを紹介してくれるとようやく事態が動いた。ミシェルは黒っぽい巻髪を一つに結んだ、いかにも仕事が出来そうな中年の女性だった。てきぱきとしたその仕草に、レティスは好感を持った。


「明日若いメイドをこの部屋に連れてまいりますね。身の回りの世話をする者が必要でしょう」

「ありがとうございます」

「私には敬語はいりませんよ、レティス様」

「……、ありがとう、ミシェル」


 言い直すとメイド長は満足げな顔になった。豪華な夕食は美味しかったものの、こんなに広い部屋でたった一人きりで食べるのはあまりにも味気ない。なんとか食べ終えると、ミシェルがてきぱきと食器を片付けた。

 それからミシェルが扉を開けて、寝室へと案内してくれた。寝室の扉を開けると浴室に繋がっている。ミシェルは、遠慮するレティスに構わず下男に命じて浴室にある猫足バスタブにたっぷりのお湯を張ってくれたのだ。


「お一人で入ることができますか?」

「もちろん」


 頷くと、ミシェルが浴室の扉を閉めながら言った。


「どうぞ、ごゆっくり」


 温かいお湯につかるのは、実は久しぶりだ。アーヴァイン家では毎日のように湯浴みする習慣がなく、身体を拭くだけのことが多かった。


(なんて贅沢なんだろう……)


 お湯と香りの良い石鹸のおかげで、緊張しっぱなしだった身体もなんだかほぐれてきた。のぼせる前に浴槽から出ると、ミシェルが入ってくる前に自分で身体を拭き、畳まれていたネグリジェを着てしまう。


「あら、ご自分で……?」


 やがて部屋に戻ってきたミシェルが目を丸くする。


「ええ、これくらいでしたら自分でするわ」


 それからミシェルが手早くレティスの濡れた髪をブラシで梳かしてくれる。寝支度を整うと、メイド長がレティスを立派なベッドに押し込んだ。


「ゆっくりお休みくださいませ」


 言い置いたミシェルが部屋を出ていくと、レティスはベッドに入ることにした。やはりマホガニー材で出来たベッドボード、ふかふかのマットレス、清潔なシーツ。何もかもが現実とは思えない。


(でもこれが私のこれからの日常になるのね……信じられないけれど……)


 目をつむると、一度も振り返らない父の背中が脳裏をよぎる。

 けれど。


『じゃがいも、一個で足りる?』


 すぐにリーンハルトの言葉を思い出し、レティスの口元にゆっくりと笑みが浮かんだ。


……彼は、味方だ。


(あんな美しくて、優しい……リーン様が……私の、婚約者……?)


 だが疲れ切っていたレティスは、それ以上深く考えることもなく、そのまま眠りに落ちたのだった。

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