第26話 「ずっと一緒にいたい」
リーンハルトがレティスの母の肖像画を描き終えたのは、夜会の前夜であった。
最後の仕上げをしたい、と夕食後に彼の部屋に通されたレティスは、ついに完成形を目にすることとなった。
「どうだろう?」
最後に唇にほんの僅かな修正を加え、おそるおそるといった様子でリーンハルトがキャンバスを示す。
「ああ……、まさに私の……、お母様、です」
完成画を見た時にあれだけ感動していたミシェルの気持ちがよく分かった。
先程までも、“母”だと思っていた絵が、最後にリーンハルトが唇の角度を少しあげただけで、息吹が吹き込まれたのだ。
(まるで今すぐ動き出しそう)
もちろん、リーンハルトよりも技巧に優れている画家はごまんといるだろう。けれど他の画家が描いてもこんな風には感じられない。きっとこれこそがリーンハルトの魔法だ。
(クリスティアーレ家の廊下で私が惹きつけられた、リーン様だけがかけられる魔法ね)
人はそれを才能と呼ぶ。
(ああ、……本当に、お母様、だわ……)
ここしばらくずっと内なる母親と対話をしていたレティスは、この絵こそが自身の母親だと思った。生前の母をよく知る人物が見たら、もしかしたら似ていないと言うかもしれないがそれでも構わない。リーンハルトが描いてくれたこの絵こそが、レティスの心の中に住んでいる母そのものだから。
優しくて、儚げで、美しくて。
これからもずっと、レティスと共にいてくれる母だ。
「ありがとうございます、リーン様。お母様を、取り戻してくださって」
そろそろと手を伸ばしてキャンバスの縁を撫でる。
「良かったら、色をつけようか?」
リーンハルトがそう申し出てくれたが、ちょっと考えてからレティスは首を横に振る。
「いいえ。残念ですが、私……お母様の“色”をあまりよく覚えていないから」
焼け残っている肖像画の切れ端は、肩の部分だけである。それでは残念ながらドレスの色しかわからない。
「そっか。わかった」
リーンハルトはすぐに納得してくれた。
「せっかく言ってくださったのに、ごめんなさい」
「ううん、いいよ」
しばらくレティスは肖像画から目を離すことができなかった。色はなくとも、十分に温度の感じられる素晴らしい肖像画だ。
そこでリーンハルトが椅子から立ち上がった。
「レティス、僕ね……」
「はい」
レティスは母の微笑みから、リーンハルトへと視線をうつした。夜の帳が降りてきて、窓から月光が入り、彼の銀髪を柔らかく照らしている。切ってから少し時間が経ったため、耳の中程までに伸びてきたそれは、出会った夜のように真珠のように淡く輝いている。
リーンハルトは真剣な表情を浮かべて、レティスを見下ろしていた。
「ずっと足りない、と思って生きてきたんだ。何もかも人と同じようにできない僕は、出来損ないだと。……だから、誰かに何をするということがなかった。だって僕ははずれ王子だから……人に与えられる何かを持っているわけがない、と、そう信じこんでた」
――ずっと足りない
――人と同じじゃない
それはリーンハルトの悲痛な、心の叫びだ。
「だけど、レティスがそれは違うと教えてくれた。僕は初めて、誰かに何かをしてあげたい、と思った……遅いかもしれないけど、やっとそう思えたんだよ」
リーンハルトが静かに呟く。
「それでようやく、周りのことを見て……気づいたんだ。父上も、ベッケンバウアーも、ルパートも……ずっと僕の味方だった。僕を守るために彼らがしてくれていたことに、ようやく気づいた。今まで、自分のことだけで精一杯で、そのことに気づく余裕がなかった。僕はなんてことをしていたんだろう」
「……、今、気づかれたのなら……よかったじゃありませんか……」
「うん。レティスならそう言ってくれると思った。僕には味方がいっぱいいたんだな……彼らにはこれから感謝を伝えていきたい」
リーンハルトがレティスにそっと手を伸ばして、抱き寄せる。レティスはリーンハルトの喉仏を見つめながら、すん、と鼻を鳴らした。
「君が隣にいてくれたら、これからはずっと一人じゃない。それもレティスが教えてくれた」
は、としたレティスは視線を上げて、クロッカスの瞳を見つめた。
「―――わ、私も、です……」
「レティス?」
「こうして母の肖像画を描いていただいている間、ずっと昔のことを思い出していて……母が……母だけは私のことを愛してくれていた、と改めて感じることが出来ました」
「……うん」
そこでくしゃくしゃっとした顔になったリーンハルトが相槌を打つ。
「それも全部リーン様のおかげで……」
「うん」
「それから……私も、リーン様の隣にいたら、もう寂しくない……」
「レティス……!」
リーンハルトが覆いかぶさるようにレティスをぎゅっと抱きしめる。
「だったら僕たち、一緒にいなきゃいけないね」
「はい、ずっと、一緒に、いたいです……」
「いよう」
力強いリーンハルトの言葉。
それは二人だけの誓いだった。
彼の唇がそっとレティスの額にあてられた。
◇◇◇
リーンハルトがレティスの顔中にキスを落としていく。くすぐったく、レティスは思わず吐息を漏らす。
「とまんない、どうしよう……このまま君が欲しいといったら……許してくれる……?」
レティスはぱっとリーンハルトを見上げる。
(リーン様にも……、そういう欲が……?)
健康な成人男子相手にこんなことを思ってはいけないかもしれないけれど――それこそルパートが指摘したことにも通じるが――リーンハルトはある意味あまりにも清らかで、いわば身体を繋げたいという欲があったりするのだろうか、と感じていた。
それでも今、すぐ目の前に立っているリーンハルトの瞳には明らかな情欲が滲んでいる。そのことに、レティスはぞくっと興奮を覚えた。
(……私と、そういうことを、したいと思ってくださって……?)
レティス自身は閨教育も済んでいるし、相手がリーンハルトならば嫌なわけがない。
今置かれている状況としても、二人が閨を共にして周囲が咎めるとも思えない。ラッドリーならば、既成事実が出来たと喜び、これでアーヴァイン家は盤石だと余計に喜ぶくらいの話だろう。
もちろん、父のことなどレティスは気にしていないけれど。
レティスが気にするのは、リーンハルトただ一人だけ。
「リーン様、無理はしていないですか……?」
躊躇いながらレティスは尋ねる。
「無理、何が?」
「だって、髪の毛を切るのも、その……感覚が嫌だっておっしゃっていたから……」
「ああ……うん、たしかに」
「私……無理はしてほしくないんです。今のままでも十分幸せだから」
リーンハルトはレティスの手を握ってくれる。
キスだって躊躇わずにする。
けれど、他の人には気軽にしないことだとレティスは今では分かっているから。
「無理はしてない。レティスだったら大丈夫だと思う……でも、怖くない?」
無理はしていない、と聞いてレティスはほっとした。リーンハルトは嘘をつかない。艶っぽい表情を浮かべているリーンハルトに向かって、レティスは小さく首を横に振る。
「私は、リーン様でしたら、ぜんぜん……怖くなんかないです。でも、ちょっと、ううん、とっても恥ずかしい、かも……」
レティスの背中に回された彼の腕に力がこめられた。
「うん、僕も……したことないから……恥ずかしいかも。うまくできるかもわかんないしね。あと、僕、興味深いものはじいっと見ちゃう癖があるから、レティスのこと、いっぱい見ちゃうかも」
彼女の頬にちゅっとキスをしたリーンハルトが、近距離からじいっとレティスの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「いや?」
そして小さく首を傾げるリーンハルトが、愛おしすぎてレティスはなんと答えたらいいだろうと思う。彼女はそろそろと手を差し伸べて、彼の頬にあてた。
「いやじゃないです……」
「ありがと、レティス。大事にする。ずっとずっと大事にする」
頬に当てられていたレティスの手を、リーンハルトがすくい取り、手の甲にキスを落とした。
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