第25話 「君が教えてくれた」

「じゃあ、早速だけど始めて良いかしら?」


 ソファにリーンハルトと並んで腰かけたレティスは、目の前の椅子に座ったミシェルに声をかける。


「は、はい……」


 ぎくしゃくとミシェルが頷き、自身のスカートをぎゅっと握りしめた。


「リーン様、お願いします」

「うん」


 スケッチブックを開いたリーンハルトがじっとミシェルを見つめた。


「お母さんの顔立ちで、自分に似ていると思う部分はある?」

「似ている部分……、そういえば顔の輪郭はよく似ていると言われました。あと、眉毛と目の形も。目に関しては、私のほうが少し大きいかもしれません」

「分かった。大きさについては、試しに描いてみてからまた聞かせて」


 そう呟くとリーンハルトが鉛筆でさっと輪郭を描き始める。

 それから彼は額の広さは、鼻の高さと形は、唇は……と質問を続け、その都度ミシェルにスケッチを見せて確認する。


「鼻の大きさはこれくらい?」

「いや、もう少しだけ細いかもしれません」

「わかった――小鼻の形はどう?」

「もうちょっとだけ小さい……かもしれないです……?」

「なるほど。形はこんな感じ? もうちょっと丸いかな」

「形はちょうどいい感じだと思います、たぶん」

「そっか。じゃ、そのままにしておくけど、違ったらまた教えて」


 なにぶん、最後に会ってから時が経っている。ミシェルも改めて質問されるとつっかえてしまうところもあったが、それでもリーンハルトは慌てずに、丁寧に微調整を重ねていく。


「――できた、と思う」


 ようやくリーンハルトが納得して顔をあげたのは、作業を始めてから軽く数時間は過ぎていた。

 リーンハルトが描き上げたのは、ミシェルによく似た、けれどミシェルよりも幾分たおやかな風貌の女性だった。微笑んでいる女性はまだ若々しく、それはミシェルが最後に会った日そのままのはずで。

 

「どうかな? ちゃんと雰囲気は捉えているかな?」


 リーンハルトがスケッチブックをミシェルに見せると、彼女は一瞬で言葉を失った。


「ああ……、はい、間違いありません……お母様、です……!」


 みるみるうちにミシェルの瞳に涙がたまっていき、とめどなく流れ始めた。


「ほ、本当に、本当に、お母様……です……!」


 ミシェルはただただ会いたかった母の姿を再び見られて、心から喜んでいる。今だけは何もかもを忘れて、母を思う娘の姿がそこにはあった。

 レティスの目頭が熱くなり、心の中で呟いた。


(よかった……!)


 レティスも母が亡くなった後、何度も肖像画を見に、飾られている部屋に足を運んだことを思い出していた。母の記憶はいつまでも消えることはないが、けれど悲しいかな、時が経つと少しずつ鮮明さは薄れていくものだ。だが描かれた肖像画を見ることで、改めてその姿を取り戻すことができるのだ。


「これはミシェルにあげるね」


 リーンハルトがその肖像画が描かれたページをスケッチブックから破り、差し出した。ミシェルが椅子からよろよろと立ち上がり、信じられない、とばかりに呟く。


「頂いてしまって……ほ、本当によろしいのですか……?」

「もちろん。これはミシェルのものだよ」


 リーンハルトが頷くと、ミシェルは震える手でそれを受け取り、大切な宝物のように胸に抱きしめた。


「ありがとう、ございます、ありがとうございます……、殿下も……レティス様も……! 本当に、ありがとうございますっ」


 溢れ出る涙もそのままに、ミシェルがお礼を言う。


「私のためにこんなに時間をかけてくださって……そして、もう……これ以上ないくらいの、幸せをいただきました……。この絵を一生大切に致します。わ、私、これからもお二人にお仕えできること、誇りに思います……!」

「そう言ってくれて、ありがとう」


 リーンハルトがそう答えると、ミシェルは何度も頭を下げながらサンルームを出ていった。するとリーンハルトがずるずるとソファにぐったりともたれかかる。


「わ、大丈夫ですか? お疲れですよね……!?」


 数時間も根を詰めていたのだから、疲れるのは当然だろう。みんな夢中で、飲み食いすることも忘れていた。ジャスターを呼んでお茶を準備しようか、と思って立ち上がりかけたレティスの手をリーンハルトがつかむ。

 

「ああ、うまく描けてよかった……!」


 ふうとリーンハルトが息をつく。


「リーン様、ありがとうございます。私のわがままを聞いてくださって」

「うん、いいよ。レティスの話を聞いて僕で良ければと思ったから」


 それはいかにも優しいリーンハルトらしい言葉だったが、それから彼は片手で自分の目元を覆い、しばらく黙り込んでしまった。繋がれている手が微かに震えていることに気づき、どうしたのだろうとレティスは内心狼狽する。


「ああ……、僕の描いた絵をあんなに喜んでくれるなんて……!」


 気づけば、リーンハルトは泣いていた。


「僕の……はずれ王子の……絵なのに……!! 僕が絵を描いていたこと、決して無駄じゃなかったんだね……!!」


(リーン様……!)


 レティスは我慢ならず、自分からリーンハルトにしがみつく。一際身体を震わせた彼が、すぐに彼女をしっかり抱き寄せる。ふわりとリーンハルトだけの柑橘類の香りがした。


「ありがとう、レティス。僕、今まで……自分のためにだけ絵を描いていた。誰かのために絵を描けるなんて知らなかった……僕がそう出来ることを君が教えてくれた」


 ぎゅっと彼女をより一層近くに引き寄せたリーンハルトが呟く。


「僕……君のお母様の絵も描きたい」


 はっとしてレティスが顔をあげると、至近距離からクロッカス色の瞳が真剣な光を湛えて見下ろしていた。


「よかったら、僕に描かせてくれる? キャンバスに描こうかな……、そうするとちょっと時間がかかってしまうけれど」

 

 信じられない思いで、レティスは目を見開いた。


「よ、よろしいのですか……? リーン様は私の母に会ったことがないのに……」

 

 リーンハルトが柔らかく微笑む。


「それを言うならミシェルのお母さんにも会ったことがなかったよ。どうか君のお母様の絵を僕に描かせて欲しい」


 みるみるうちにレティスの視界が歪む。


「……嬉しいです、リーンさま……本当に、うれしい……」


 感動のあまり、それしか答えることができなかった。彼が近づいてくる気配がして、ちゅっと唇を奪われる。二度目のキスは、涙の味がした。


「うん、そうしたい」


 力強くリーンハルトがそう答えた。


 ◇◇◇


 翌日サンルームに現れたルパートは、柔らかい眼差しをしていた。


「ミシェルがとても喜んでいましたね」


 昨夜、寝支度の準備のためにレティスの部屋に現れたミシェルは、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとした顔をしていた。たった一枚の肖像画。けれど、その一枚さえあればミシェルは前を向いて生きていくことが出来る。あの肖像画はミシェルにとってそれだけの価値があり、またそこにこめられた想いをレティスは尊く思う。


「僕の絵でも役に立ったんだよ」


 ソファに腰かけたリーンハルトが胸を張ると、ルパートが一瞬言葉をつまらせる。


「……それを聞いて、嬉しく思います」

「ふふ、凄いよね。昨日、自分の絵がそんな風に役立つことがあるって知って、泣いちゃったんだ。それで、次はレティスのお母様の絵も描こうと思ってる」

「レティス様のお母様の絵を……?」

「そう。レティスのお母様、流行病で亡くなっちゃったんだけど……残っていたたった一枚の肖像画を意地悪なお姉さんに燃やされちゃったんだって」

「は?」


 ルパートが剣呑な声を出した。


「実のお姉さんだよ? ほんとにひどいよね……それで、もうレティスの手元にないから、僕が描いてみようかと思ってさ。そんなわけでしばらく授業は短めに頼むね。授業の後は僕がレティスのお母様の絵を描く時間にするから」

「授業を短めにするかはお約束はできませんが……心に留めておきます」

「ありがと」

「リーンハルト様」


 ルパートが殿下、ではなく、名前で呼びかけた。


「なに?」

「すごく素敵なことをされようとしているのですね。リーンハルト様のお心遣いに感銘を受けました」

「ふふ、珍しいな。ルパートに褒められちゃった」


 リーンハルトが照れたように視線を逸らす。


「そうやってリーンハルト様が他の方のために動くことが出来るようになられたのも、全てはレティス様のお陰ですね」

「本当にそう。というわけで、早速、短縮授業を頼むね」

「それはお約束できませんと申し上げたはずです」


 ルパートが澄まして答えて、三人で声を上げて笑った。


 新しい日々が始まった。

 朝食後、あまり冷え込まない日は庭園で散歩をしてから、サンルームでルパートの授業を受ける。それから遅めの昼食かアフタヌーンティーを頂いてから、リーンハルトの部屋でレティスの母の肖像画に取り組むこととなった。


 ミシェルと違い、レティスはかなり幼い頃に母と死に別れているから、そこまではっきりと顔立ちを覚えているわけではない。しかも肖像画も何年も前にセイディによって失われてしまっている。


 イーゼルに立てかけられたまっさらなキャンバスを前に、リーンハルトがレティスを振り返った。


「お母様の肖像画は覚えている?」

「はい……なんとなくではありますが」

「君に似てる?」

「……似てないこともない、かと。よく覚えていませんが……」

「わかった。じゃあまずはレティスの顔をベースに描いてみて、違うと思うところを直していこう」

「わかりました」


 そうやって手探りで始まった。


 父のラッドリーならばレティスよりもまともに覚えているだろうか、と一瞬そんな考えが脳裏をよぎった。だが父は母のことなど忘れ去っているだろう、とすぐに打ち消す。

 父のことだからリーンハルトが呼べば喜んで離宮にやってくるだろうが、もう関わりたくはない。月に一回の中身のない手紙のやり取りだけでもう十分だ。


 父を頼れないとなると、八方塞がりのようにも感じられたが、リーンハルトは決して焦らなかった。

 もともと穏やかな気性の人だとは思っていたが、どこまでも気長に絵に取り組む。そして、何よりも真摯で、真剣に絵と向き合う。


(絵を描かれるのが本当にお好きなんだわ……)


 リーンハルトはまず簡単に鉛筆でデッサンをするという。


「眉毛はもっと長かったかな?」

「うーん。そうですね、そんな気もします」

「そっか。眉尻はどうだろう……でも、きっと微笑んでいるのだから上がっているよりは下がっているほうがしっくりくるかな。ちょっとだけ下げてみるから、確認してくれる?」


 そうやって丁寧に丁寧に作業を続けた。

 

 驚いたことに、リーンハルトに母について尋ねられているうちに、徐々に母との記憶が蘇っていくのを感じていた。母と突然別れた衝撃のあまり、奥底に押し込められていた記憶をレティスは少しずつ取り戻していく。


(私、ずっと辛すぎて……考えないようにしていたけれど……今思い出すと、良い思い出もたくさんあったな)


 それはずっとレティスの心のどこかに潜んでいた。


 母が自分を膝に乗せてくれて、頭を撫でてくれたこと。

 母が飲んでいるお茶をちょうだいとごねて、優しくたしなめられたこと。

 でも結局、母がお茶を一口わけてくれたこと。

 そのお茶が苦くて、顔を顰めたら、笑われたこと。


 母の明るさ。

 穏やかさ。

 大好きだった母の面影。


 リーンハルトが肖像画を描こうと言ってくれたことが確かなきっかけになり、母を思い出すというプロセスが、彼女を失ったことで出来た心の傷跡を少しずつ癒やしていく。


 きっと、今で良かったのだ。


(リーン様と一緒だから、こうやって自然と思い出せるのだわ)


 真剣にキャンバスに向き合うリーンハルトの横顔を見ながら、レティスはそう考えていた。

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